生松敬三・木田元『現代哲学の岐路 理性の運命』(講談社学術文庫、1996年)を読んで。
大塚信一氏の木田元論を読んでからどうしても読みたかった本がある。それは本書『現代哲学の岐路』という生松敬三と木田元の対談本である。本書は現代哲学が展開されるその文脈を一歩引いた視点から二人で気が付くことを語り合う本であるのだが、絶妙な距離から見定められるその現代哲学の姿、現代思想の思潮の機微に、微に入り細を穿つ二人の語りに固唾を飲む一冊である。(両者の詳しい交流は大塚信一『哲学者・木田元』を参照。)
本書はもともと中公新書として1976年に刊行されている。したがってその内容は1970年頃までの思想的風景で止まっているのは当たり前なのだが、本書で語られている内容は未だに古びていない。哲学研究の通時的な視点からは零れ落ちてしまう文脈を拾い上げながら展開されていく二人の話はそれぞれの関心が相補うように19世紀末に向かって収斂していくその思想の趨勢を鮮やかに描き出していく。気が付いたことを拾い上げていくような叙述の一つひとつにその思想的営為の奥行きを垣間見させる本となっている。もちろん合田正人氏のフランス哲学思想研究のような浩瀚な研究で扱われる事柄や、アラン、ヴェイユ、あるいはベルクソン、レヴィナスといった人々のことは扱われていない。本書では世紀末にかけてと二つの大戦の時代を経て、どのように現象学が胚胎し、メルロ=ポンティやサルトルへと接続していくのかがその文脈とともに明示されていく。
通時的なリニアーな研究ではどうしてもその個々の哲学者の文献の読解に集中することになってしまうが、二人の語りを通して描き出される思想的風景はそこから一歩引いたところから語られている。哲学史を学ぼうとするとどうしても哲学史そのものには書かれることの無い背景がある。それはマルクス主義であり、あるいは世紀末思想である。ニーチェが如何にショーペンハウアーやカントを読み、何に取り組もうとしたのか。そしてそのニーチェをハイデガーがどのように読み、固有の思索を深めていったのか。木田元の読者であればどこかで読んだことがあるような主題と出くわすであろう。その問題群が生松敬三氏とのやり取りの中で思想的文脈の内に肉付けされていくことが手に取るように感じられる本なのである。
大塚信一氏の木田元論に描かれていた両者の知的躍動溢れる対話の様子を本書は余すことなく伝えてくれる本である。哲学に興味のある読者のみならず、今の世界がどう成り立っているのか、その背景を二人の思想家が解読しようとする本として広く勧めたい一冊である。本書を通してより詳しく知りたい読者は、生松氏の『二十世紀思想渉猟』と木田元の著作群へと自ずと導かれるであろう。