若松英輔・山本芳久『キリスト教講義』(文藝春秋、2018年)を読んで。
本書『キリスト教講義』はキリスト教について長年思索を深めてきた若松英輔氏と山本芳久氏によるキリスト教のエッセンスを語りつくす本である。
キリスト教は西洋のものであると思ってしまっている人も多いと思う。しかしそれが西洋の見方に収まらないことを若松氏は『イエス伝』において論及している。文化内開花(インカルチュレーション)とは単に日本的にキリスト教を理解しようということではなく、深くキリスト教の伝統に分け入った先に見出すものがそれまでのキリスト教には見出されなかった側面を照らし出すものではないかという問いかけを含むものなのである。
とはいえキリスト教を研究するとなればその遺産に分け入る必要がある。その時に英語で読むキリスト教についての文章はスッと理解できるのに、日本語になった途端に読みにくくなるという経験をしたことのある人もいるかもしれない。本書はそのような人にぜひ薦めたい一冊である。というのも本書においてキリスト教の基本的な発想が平易な日本語で正確に表現されているからである。若松氏の端的な問いかけに応じる山本氏の返答を通してキリスト教の根本問題へと分け入る洞察が次々と提示されていく。今私たちがキリスト教の古典を受け留めることの意味が様々な角度から照らされていくのである。そしてその問題群は目次からもわかるように現代社会を貫くものなのである。
中でも印象的なのは悪に対峙するために私たちに求められているのは正義ではなく聖なるものではないかという若松氏の問いかけである。本書において深掘りされる新約聖書の罪理解やアウグスティヌスの自由意志についての省察がこのことに結び付いて、そこからヴェイユやアーレントを読むことの意味を読者に問いかけるのである。上記の洞察のみならず本書全体を通して、読者はキリスト教の古典的著作が今日性を携えたテクストとして読み解かれるのを目の当たりにするであろう。
本書の特徴は具体的な問いかけに対する明快な返答だけでなく、さらに問いを深めたい人のために用意された巻末のブックリストにある。カトリック神学を学ぼうと思う人にとって必携であるカテキズムやデンツィンガーのみならず、日本語で読めるキリスト教文学の精華の数々が紹介されている。さしずめ最初で最後の読書案内のようである。多数ある翻訳の中でなぜこれらの書が選ばれたのかということは詳しく述べられていないが、山田晶訳のアウグスティヌス『告白』とトマス・アクィナス『神学大全』は古典として手許に置いておきたいものである。本書『キリスト教講義』はキリスト教をこれから学びたい人にも、すでに学び始めている人にも強く薦める一冊である。
※以下のリンクに本書に関する様々な文章が公開されているので、ぜひご覧ください。