加藤信朗『ギリシア哲学史』(東京大学出版会、1996年)を読んで。

 実際に読んでみるまでは真価を理解できない本というのがある。定評はありながらも、滅多に古本市場に出ることはなく、出たとしても状態が悪いものでもなかなか値が下がらなくてずっと気になる本であり続けた、加藤信朗氏の『ギリシア哲学史』がそうだった。学生の頃は新刊書店でも見かけたのにいつしか全く見かけなくなり、いつかの古本市でよい値段のものを見つけて手に入れていたのである。最近、納富信留氏の解説による新版が出たばかりで、これからも新たな読者を得ていくことであろう。
 本書は一見、教科書的な体裁と相まって、古代哲学史についての概説を得るための本であるかのように思われるかもしれない。しかし実際に読み進めてみるとそうではないことが分かる。確かに本書の最後の部分の新プラトン主義にかけての記述は教科書的なまとめである印象を否めないかもしれない。しかしそれは核となるものがプラトンとアリストテレスの章において提示された上で理解されるべき、数百年にわたる思想史の傾向を手短にまとめたものであることに注意しなければなるまい。本書はプラトンとアリストテレスの章を核に、それらを挟み込むようにソクラテス以前とアリストテレス以後の哲学史を手短にまとめ、従来に比してプラトンの分量がアリストテレスにはるかに勝るという、一見バランスを欠いた構成になっている。ところが中核をなすプラトンの章では、実際にプラトンを読んでみて読者自身がプラトンに取り組もうとしたときにぶつかるであろう問題群が浮き彫りにされ、実に骨太な読解の核となる洞察が次々と記されていくことに驚かされるであろう。それも通り一遍のものではなく、かなり深く内容に踏み込みながらも窮屈さを感じさせず、あとがきにも書かれているように長年の原典の精読の痕跡をありありと感じさせるものである。分量にしてプラトンの半分しかないアリストテレスは、ともすれば内容が手薄なのかと言えばそうではない。第一級の研究書ともいうべき旧版アリストテレス全集の分析論後書とニコマコス倫理学を担当した著者ならでは凝縮されたアリストテレス哲学の骨格が、確かな原典案内とともに与えられるのである。
 従来、プラトンとアリストテレスの対立が注目され、独立した研究領野としてソクラテス以前の哲学を扱うべきだという論調が続いてきた。しかし著者はニーチェのソクラテス以前の哲学へのロマン主義をピシャリと一喝し、ハイデガーやイエーガーの解釈にも疑問を呈するのである。実際にギリシア語でプラトンを読み始める読者は、アリストテレスとはずいぶん異なる言葉の使い方に戸惑うかもしれない。しかし、アリストテレスにしても、ソフィストにしても、後代の解釈を通してではなくプラトンその人の読解を核にして取り組まなければならないということを本書は思い出させようとしているかのようである。本書を読み進める読者は、プラトン自身、あるいはアリストテレス自身の声を聴く思いすらするであろう。そういう生き生きとした哲学入門なのである。

いいなと思ったら応援しよう!