J.-P. トレル/保井亮人訳『トマス・アクィナス 霊性の教師』(知泉学術叢書、2019年)を読んで。
本書はトマス・アクィナス研究において言わずと知れたトマス論の決定版である。アンソニー・ケニーの中世哲学史を始め、ファーガス・カーのトマス入門、それからバーナード・マッギンの神学大全入門でトマスの伝記として真っ先に言及されているのがジャン・ピエール・トレルによる上下二巻のトマス研究なのである。トマス・アクィナス研究において絶対的な支持を誇るトレルのトマス論の上巻はトマス伝の決定版として、現在の研究の集大成を読者に惜しげもなく提示してくれるものである。とはいえ上巻の内容は、すでにある程度トマスの思想に興味を持ち、その人と著作について興味を持った人を読者として想定している。もちろんトマスの思想を彩る様々な著作がどのようにして世に出ていったのかを生き生きと描き出す上巻は、細部にわたってトマスの思想を享受するための確かな礎となるであろう。しかし、まず読んでほしいと思うのは下巻の方である。
トマス・アクィナスの『神学大全』は堅固な思考の結晶としてどこか人を寄せ付けない印象を与えてきたのではないだろうか。ところが実際は、緊密な主題相互のつながりがいかに有機的なものであり、私たちの生の諸相に光を照らすものであるかということが近年明かされつつある。むしろ『神学大全Summa Theologiae』は時に「神学の要約Summary of Theology」と訳されることもあるように、トマスの長年にわたる生き生きとした思想的対話と省察の後に書き記された、キリスト教神学の中心問題を凝縮した形でまとめた本なのである。そしてまさにトレルのトマス論の下巻を成す『トマス・アクィナス 霊性の教師』は、その背景を成す豊かな思想的対話と洞察をありありと読者に提示してくれる一冊である。というより、もとを糺せばそういった読解を可能にしているのが本書であると言うべきであろう。
トマス思想になんらかの興味を抱いている読者であれば自然法について調べたことがあるのではないだろうか。本書は自然法や良心、教会共同体を成り立たしめている愛の秩序など、トマス思想を特徴づける重要な概念が文脈についての丁寧な説明と豊かな引用とともに説明されていき、その説明は時に習慣という言葉の持つニュアンスやストア思想との相違に及ぶ。近年キリスト教を理解するために注目されることの多いキリスト教的創造観が本書全体を通して有機的に浮き彫りになるようになっているので、キリスト教入門としてもおすすめできる。そして何より本書は中世哲学の問題群が生き生きと提示されていることからも、読者は中世哲学で常に論じられる問題の一つの雛形を得ることができるので中世哲学入門としても優れている。中でも印象的だったのは、自然法の出典として言及される『神学大全』第二部の第一部第94問第2項の引用とその説明にはハッとさせられ、余人を以ってしては書き得ない明晰さと深さの引用と説明とであることに気付かされたことである。
本書は膨大な著作を残したトマス・アクィナスの思想の全体像をそれまでの多数の古典的研究と著者ならではの豊富な引用とともに提示するたぐいまれなトマス入門である。読者に問題の所在を示し、たびたび本書がほんの入り口に過ぎないことを指摘しながらも、最初から最後まで緊張のある叙述を通してトマスの豊かな哲学的洞察に触れることができる。本書は英訳本の半分ほどのサイズでそれほど字も小さくなく、新書のサイズで文字が横組みなのも読みやすい。新書サイズであの有名なトマス論が読めるとは夢にも思わなかったので、知泉学術叢書の今後にも注目したい。初めて読む人にとって手に取りやすく、繰り返し読むのを促してくれる装幀と相まって、(通勤電車で!)本書を読むのは至福のひと時であった。
P.S. 本書のトマスからの引用の中で「トマスは」と記されていることがあるのだが、これは「――」で挟まれており、引用者である著者トレルの言葉でトマス・アクィナスその人のことを指している。読んでいて気がつくまでに少し時間がかかったので、実際に読み進める方のために注意を喚起しておきたい。