トマス・アクィナス/稲垣良典・山本芳久編/稲垣良典訳『精選 神学大全 1』(岩波文庫、2023年)を読んで。
トマス・アクィナスの『神学大全』は創文社の邦訳で45巻に及ぶ膨大なものであり、時にゴシック建築に例えられる。山本芳久氏の数々のトマス論によって『神学大全』に蔵されている豊かさが様々な形で明らかにされつつあるものの読者が容易に手にすることのできるトマスの著作は中公クラシックスの神学大全選を措いて他になかった。満を持しての文庫化と言えよう。岩波文庫版の神学大全選は徳論、法論、人間論、神論の四部構成の予定で日本の読者が神学大全に親しむための柱となる内容となることであろう。というのも第一巻においては習慣論を基礎とした徳相互の関係を扱う箇所が収録され、法論においては法の基礎に位置づけられる自然法を具体的に扱う箇所が採録され、人間論においては人間存在を包括的に扱う感情論の肝となる部分が取り上げられ、最後の神論においてはキリスト教神学の根幹をなす神理解が取り上げられるからである。
待望の文庫化の第一巻を飾るのは徳論を扱うもので、前半の問題群は諸徳の基礎となる習慣を論じたものであり、後半は諸徳相互の関わりを詳述したものである。『神学大全』においてはそれらの問題群に数倍する詳しい諸徳と悪徳との具体的な論述がその後に控えているのだが、読み進める中で本巻の習慣論がトマスの論述の中でいかに大事な箇所であるのかが明らかになっていく。それは私たちの一つひとつの行為が方向付けを与えられていく様子が語られていく箇所であり、そのことを基礎に後の論述が組み立てられていくからである。まさに諸徳を扱う徳論の中でも要となる箇所なのである。
ここに収録された翻訳は元々創文社の全集で翻訳者である稲垣良典氏が担当された箇所であり、本書に採録された習慣論と次巻の自然法についての部分は訳者が強い思い入れのもとに翻訳をされている箇所である。実際に読み解くことを通してしか触れることのできないトマスの生き生きとした思考を再現する翻訳は解説において山本芳久氏が指摘しているように非常にバランスの取れたものであることが窺える。訳語の選択ひとつとってもまさにhabitusを習慣と一貫して訳していることに本書の特徴があると言えよう。この訳語はアリストテレスのヘクシスをトマスがハビトゥスと表現しているもので、アリストテレス研究においては「性向」「状態」などと訳されており、中公クラシックスの神学大全選の山田晶訳では「性状」と訳されている。様々な解釈が乱立する中で一貫して習慣と訳している訳文はともすればぎこちなくなるのかと思いきや、むしろトマスが論じている事柄を浮かび上がらせる翻訳になっている。日本語として読みやすいだけでなく、個々の訳語が対応して背後に見える訳文は読者を精確な理解へと導いてくれるであろう。
ゴシック建築にならわされる神学大全であるが、スコラ哲学を評して教皇ベネディクト16世は外の光に照らされた聖堂の内側から見える美しさをたびたび指摘している。それにならうかのように、本書の論述を通して読者は『神学大全』の柱を詳しく眺めることができ、どのような論述で組み立てられているのかを垣間見ることができよう。それは決して硬化したものでも裁断的なものでもなく、数多くのアリストテレスからの引用に伺えるように、生き生きとした観察とそれらについての洞察に根ざしたものなのである。むしろそこから私たちの経験を形作る洞察を新たな目で読者が見出すことのできる、そのような新しさを蔵しているのである。豊富な引用を通してトマスが紡ぎ出す洞察はアリストテレス読解の手掛かりをもたらすだけでなく、私たちの経験をより明らかに照らす理性の光をもたらすものとなりうるのである。
『神学大全』の邦訳を完成させた際に稲垣氏が寄せた文章にアンソニー・ケニー氏との対話の様子が語られており、習慣論と法論についての思い入れが言及されている。本文で触れた「性向」「状態」の訳語は、アリストテレス研究においてヘクシスとディアテーシスの訳語として反転することがあり、英訳でもdispositionとstateの訳語が訳者によって反転して用いられている。そのことは寄稿された文章にも書かれているのだが、トマス自身がhabitusとdispositioの両方を用いていることから、英語の表現でヘクシスの訳語としてdispositionを受け留めている読者は注意が必要である。ちなみに稲垣氏の本訳書ではdispositioに状態の訳語を充てている。稲垣氏の当該の論文は下記のリンクで読むことができる。
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