没男のショートコント⑤【人間の尊厳】
扉を前に苦悶するすべての同志へーーー
超エリート新入社員のチェリーボーイYは1時間後、これまでの人生で最も重要なランチを控えていた。かねてから好意を寄せていた取引先の同年代の女と、初めてサシで食事をする機会を得たのだ
しかし、Yはこの日、受難の時を迎えた。
Yは緊張からか強烈な便意に襲われたのだ。個室は全て埋まっている。開くことのない扉は無慈悲の謂である。人間の尊厳を揺さぶる、冷たい板だ。
駅のトイレとは、なぜこうも混んでいるのか。Yは苦悶の表情で壁に手をつき、世界を呪った。個室を塞ぐ奴らに、心の中で「死ね!」と呪詛の言葉を放った。
この駅にはまだ2つトイレがある。もちろんYは全てあたった。しかし、いずれも個室は塞がっていた。
虚飾で輝く順風満帆なYの人生は脆くも崩れ去ろうとしていた。一流大学も大手企業への就職も、可愛い彼女も何もかも。
戦術はさまざまだが、Yは最後にたどり着いたトイレで粘ることにした。
「いつか、きっと、開く。
あとは、俺の肛門が閉じ続けられるか、だ」
「いや、もし漏らしたら? 俺は俺として生きていけるのか?」
個室は4つあった。
2つの使用者はYの呪詛通り死んだ。
1つの使用者はウンコもそこそこに、携帯ゲームで盛り上がっていた。一番厄介な奴だ。しかし外からは知る由もない。
最後の一室では、中年のサラリーマンが脂汗を流して闘っていた。
出そうで、出ない‥
一方でYは、出そう、いや、出る‥
「そうだ、多目的トイレは? 腹痛は免罪符だ。しかし、5メートル後方のトイレまで移動するのはあまりに危険な賭けだ」
だが、ここで賭けなければ敗北必至なのは明らかだった。
Yはじりっじりっと壁をつたい多目的トイレに向かった。
「使用中のランプはついていない」
Yは「開」ボタンを連打した。
扉が右にスライドすると、便座の老人と目が合った。
女はYとの食事を楽しみにしていた。彼女はまさか自分がYのような男に食事に誘われるなんて思ってもみなかった。Yの経歴、知的な顔つき、バリバリの仕事ぶり、マメな気遣いにカリスマ性、どれをとっても彼女には魅力的に映った。
見方を変えれば、彼女にとって彼は別世界の偶像であり、人間ではなかった。学生の時以来の恋愛感情に、彼女はややのぼせあがってたのかもしれない。
Yがなかなか来ないので、彼女は先に席についた。まもなく、Yが現れた。憔悴していた。普段の自信に満ちた姿とはまるで別人だった。覇気がない。濡れそぼった仔犬のように目が泳いでいた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
Yは俯き椅子の隣で立ち尽くしている。彼女はすぐに臭いを察知したが、Yが発生源だとはつゆほども思わなかった。むしろ、自分が臭っている気がして戸惑った。
「ごめんなさい、ちょっとお手洗いに」
「その必要はありません。あなたの香水はちゃんと薫ってます」
「‥臭いは僕のせいです。ええ‥漏らしたんですよ」
Yは力なく笑った。
間をおいて、彼女も笑った。
「Yさんだって、そうね。人間だもの」
彼女は、営業の途中でウンコを漏らし帰ってきた父のことを思い出した。お母さん、パンツなんて捨てればよかったのに、一生懸命洗ってたっけ。お父さん、情けない顔してたなぁ。
「恥ずかしながら、僕はウンコを漏らしたんですよ」
「それでも来てくれたじゃないですか」
「ええ、迷いましたが‥情けない話ですが、それでもあなたに会いたかったんです」
彼女は、さも良いアイデアを思いついたように言った。
「Yさん、ランチの前に下着とスラックス買いに行きませんか?」
「一緒にですか?」
「私もそのうち漏らしますから、その時も一緒に替えを買いに付き合ってくださいね」
Yは一度失った尊厳を取り戻した。そして、彼女の尊厳を脅かすあらゆる者に立ち向かおうと誓った。
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