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奈マ道19:執着を手放す

『奈良マラソンへの道 19』

11/1012と今日のトレーニング
11/10
月曜 距離:10km 時間:60分(平均6:02/km
11/12
火曜 距離:25km 時間:2時間52分(平均6:54/km
11/15
金曜 距離:25km 時間:3時間6分(平均7:21/km

しばらく離れていたマラソンを再開して、12月の奈良マラソンで4時間30分を切ることを目標に、日々トレーニングに励んでいます。(自己ベスト2019:大阪マラソン:4時間56分)


「執着を手放す」とは?

今回は少し趣向を変えて、「マラソンタイムの目標にどこまで頑張るべきか?」そして「妥協も時には必要なのか?」について考えたことを書きます。ここ数日の自分のトレーニング体験を通じて浮かんだテーマです。

壁にぶつかる日々

今月7日、奈良マラソンに向けた30キロ走を計画しましたが、実際には25キロで断念しました。それ以降、何か「見えない壁」にぶつかっているように感じています。いわゆる「長距離の壁」かもしれません。

10キロを3日に分けて走るのと、一気に30キロを走るのでは負荷が全く異なります。今シーズンは頑張っているつもりでしたが、20キロを超える距離になると、心身ともに苦しさが増してきます。この状況が続く中で、正直少しテンションが下がってきている自分に気づきました。

仏教的視点で考える

そんな「走るのがしんどい」と思う自分を、仏教的な考えで乗り越えられないかと思い至りました。鍵となるのが「執着から離れること」です。

現在、奈良マラソンで「4時間30分を切る」という目標を掲げ、それに向けてトレーニングを続けています。しかし、最近の状況は、仏教でいう「求不得苦(ぐふとくく)」――すなわち「目指した結果が得られない苦しみ」そのものと感じています。

では、この「執着」を手放すことはどういうことなのでしょうか?

妥協と現実逃避の違い

「4時間30分を切れなくてもよい」と思えることが、執着を手放すということでしょうか?それとも、ただの現実逃避になってしまうのでしょうか?

執着を手放すことと、妥協すること。この二つはとても似ているようでいて、異なる段階のように感じます。私は「執着を手放す」ことで、「目標を達成できなくてもその過程を楽しむ」という姿勢を持ちたいと思います。しかし、それは単なる妥協や自己欺瞞ではなく、自分の気持ちと向き合うプロセスでなければなりません。

良い悪いではなく「巧みか否か」

仏教では「良い・悪い」と判断する代わりに、「巧みか否か」で物事を見ます。目標を達成すれば、それは自己管理が「巧み」であった証。達成できなくても、そのプロセスを楽しめたのなら、それもまた「生き方が巧み」と言えるでしょう。

「目標を達成することが良い」「達成できないことが悪い」という考え方にとらわれると、そこに執着が生まれます。この執着が苦しみの元凶であり、仏教が教える「四苦八苦」にも通じます。

執着を手放すとは?

執着は、生きるための本能から派生したものだと考えます。人間は、動物と違って自由な時間が多い分、死や苦痛から逃れようとする行動にエネルギーを費やします。その結果、「人より優位でありたい」「注目されたい」といった執着が生まれるのです。

「執着を手放す」とは、「そのままで良い」と認めること。良い悪いの判断を手放し、「こだわり」を捨てることです。それは簡単なことではありませんが、自分の人生を愛し、大切に思う姿勢を育むことにつながると感じます。

最後に

奈良マラソンまであと少し。「執着を手放しつつ、自分の限界に挑む」というバランスを探りながら、走ることそのものを楽しんでいきたいと思います。

最後まで読んでくださってありがとうございました。次回もぜひ気軽にお立ち寄りください!

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