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『諦め』と『受け入れ』

先日、友人との対話で、長い間自分の中で引っかかっていた疑問を問いかけてみました。それは「『諦める』と『受け入れる』は、結果的には同じような選択に見えるけれど、何が違うのだろう?」ということです。私の中では、「『諦める』は、どちらかというとネガティブな感情からくる行動で、『受け入れる』はポジティブな感情から生まれる」という印象が強くありました。

しかし、仏教的な視点では「諦める」という言葉には「明らかにする」という意味があり、物事の道理を理解し、次のステップに進むために手放すことを指します。つまり、仏教的には「諦める」ことが必ずしもネガティブなものではなく、むしろ物事を受け止める一つの重要な過程であるとされています。

このため、私は『諦める』と『受け入れる』の違いが単にポジティブかネガティブかという感情面の違いだけではないと感じていました。これまで友人や知人にこの話をすると、多くの人が「そうだよね」と同意してくれましたが、どうしてもこの単純な二分法にしっくりこない部分が残っていました。仏教の教えにおいては、ポジティブとネガティブといった感情の区別自体があまり重要ではなく、ただ事実をありのままに受け止めることが重要だという考え方が根底にあります。この点が私の心の中でモヤモヤしていたのです。

そこで、友人にその疑問を話してみました。すると彼はこう答えました。「自分を○、対面した出来事を△とした場合、受け入れるって○の中に△を取り込む感じがするけれど、諦める場合は△を○の横に置いて、自分の中には入れない感じがする」と。

この答えを聞いて、私は「なるほど!」と腑に落ちました。友人の説明によって、『諦める』と『受け入れる』の違いが明確に理解できました。つまり、受け入れがたい出来事があった時、それでも前に進まなければならない場合、『諦める』という選択は「今はまだ受け入れられないけれど、一旦横に置いておいて次に進む」という感覚です。一方で、『受け入れる』というのは、「その出来事を自分の一部として取り込む」という感覚なのです。

これを少し整理すると、受け入れがたい出来事に直面しても、前に進む必要がある時には、まずその出来事を保留にするような形で「諦める」ことができます。そして、時間が経ち、状況や自分自身が変わることで、以前は受け入れられなかったことでも、やがて「受け入れる」ことができるようになる。その段階で初めて、「受け入れる」という選択が完了すると言えるのです。

例えば、夢を追いかけていて壁にぶつかり、それを乗り越えられない時には、一旦その夢を諦める(現実を受け入れる)必要があるかもしれません。しかし、その夢を追いかけて努力してきた日々や経験が無駄になるわけではありません。むしろ、その経験は自分自身を成長させ、視野を広げ、結果的に異なる形で役立つことがあるのです。

時間が経ち、状況が変わる中で、かつて諦めた夢をもう一度見つめ直す瞬間が来るかもしれません。その時には、以前よりも成長した自分がいることで、夢への向き合い方や理解が深まっているでしょう。かつては手放した夢が、他の経験や努力を通じて、再び自分の中で意義のあるものとして蘇ることがあるのです。

つまり、諦めた夢も完全に消えてしまうわけではなく、努力し続ける中で、その経験が自分の成長に繋がり、別の形で実を結ぶことがある。これが、諦めることが受け入れることへとつながる道筋です。

今回の気づきや新たな考え方の発見は、まだ私の中ではとても新鮮で、生まれたばかりの思考です。これからも様々な経験を通して、この生まれたばかりの思考がどのように変化していくのかが楽しみです。

なんちゃって(笑)

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