過去の自分に向けて、今の自分ができること
頑張ってた過去の自分へ、それを認めてこなかった今の自分からの言葉
あらためて振り返ると、過去の自分割と頑張ってたなぁ・・、と思います。でも、それを認めたことは一度もなかった。それどころか「もっと頑張れただろ」「被害者ぶるな」と叱咤し続けてきた。
・・・ごめん、つらかったよね。
傷の深さに言葉が出なかった
以前の記事でも書いたけど、過去と向き合っているとき、私はよく過去の自分(以下、リトル隅っこ)に怒られます。
具体的にいうなら、過去の感情を思い出そうとしたり、過去のことを解釈しようとすると、リトル隅っこがめっちゃガン飛ばしてきます(;^ω^)
彼女の主張は
「痛みを感じたってなにも変わらなかった!だから”感じないこと”を選んだんだ!いまさら掘り起こすな!!」
「認知を変える!?私が痛みを感じたこと自体間違っていたというのか!!」
というもの
彼女の主張の裏にあるのは
「”痛みを感じない”という私の選択が、間違っていたというのか」
「いまさら感じようとしたところで、お前はまたその感情を否定するだろ」
という、悲痛な思い。
つまり
「お前まで私を責めるのか!!」
っていうことだと思う。
彼女の抱える傷の深さが想像を絶するもので、この言葉を投げられたとき私は何と返せばいいのか、わかりませんでした。
過去の自分が怒る理由
リトル隅っこの怒りの奥底には「否定されたくない」という恐怖感がある。
これまで負の感情を嫌になるくらい浴びてきて、でもそれに飲まれないように必死にもがいてきた。自分も他人も傷つけない方法を、必死に模索してきた。
「感じない」という選択は、ぼろぼろになりながら行き着いた、リトル隅っこの努力の結晶、血反吐を吐く思いで身に付けたサバイバルの術。
そのガードを外そうとする行為が、リトル隅っこには「必死の努力すら否定されている」ように感じられる。
まだ足りない、もっと頑張れ、と言われているように感じられる。
それが怖いし、悲しいし、腹立たしい。
「じゃあ、どうしたらよかったんだ!!」
私の中でリトル隅っこはそう言って泣き叫んでます。
大人になった自分が、過去の自分へ伝えたいこと
たぶんね・・仕方なかったんだと思う。
あなたがどれだけ頑張ったって、あなたの望む形にはどうしたってならなかった。あなたが納得いく答えはきっと得られなかった。
でも、あなたは頑張っていた。
自分にできることを自分なりに考えて、精一杯やっていた。
たとえ完璧じゃなかったとしても、いびつな試行だったとしても、そのことはすごいと思う。
かつての努力は今の私の抱える”歪み”に繋がってしまったけど、それでも当時のあなたが生きるためには必要だった。
だから、無駄じゃない、間違っていたわけじゃない。
でも、今はもうそれが必要な環境ではない。
負の感情を日常的に投げつけられるわけではない。
養育者に守られなければ生きていけない立場ではない。
いる場所だって、付き合う人だって自分で選ぶことができる。
だから、痛みを感じないふりをしなくてもいい。
”痛みを感じない人間”になる努力をしなくてもいい。
痛みを感じることから逃げていい、とまでは言えないけど、少なくとも痛みを感じることは自分に許可してあげてもいいと思う。
「私はあなたを否定したいわけじゃない。」
これから少しずつでも、彼女にそう伝えていこうと思います。
過去の自分に向けて、今の私ができること
過去の自分に対して、私ができること、やるべきことは
「頑張ったね」
と伝えてあげることだと思ってます。
そのうえで
「この先は、大人になった私が引き受ける。だから、あなたはもう頑張らなくても大丈夫だよ」
と安心させること。
この”安心させる”というフェーズが、めちゃくそ大変な気がするけど・・(;・∀・)
きっと、そのためには「自分は一人ではない」「助けてくれる人はいる」と実感とともに思えることが必要だと思います。
具体的なやり方は全然見当ついてないけど、まずは”他者との関わりを避けないこと”が重要なのかな・・とか思ってます。
自分なりにしっくり言い方するなら「どれだけ怖くても、隅っこでじたばたするのをやめないこと」
結局そこに立ち返る気がする(笑)
前途多難感がぬぐえないけど、隅っこじたばた生活、引き続き頑張ります。