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クリエイターズ・シナプス

──創作活動を行う時、脳内で何が起こっているのか考えてみる話──


 創作の時だけつながる脳細胞、つながるニューロンネットワーク。


 どうも、禁酒72日目の私です。そろそろこの枕も変えた方がいいかしら。

 前回の記事「dbnさん二次創作の感想、反省点と改善点」の中で、

2.書くのが止まらなくなった
 これはきっと、これだけで記事が一本書けると思います。おそらくクリエイターだけが知る、創っている時にしかつながらないシナプスが、次々とつながる経験をしました。あふれるインスピレーションはどこから来るのか。

という一文を書きました。なのでそのとおり、今回はこの部分を掘り下げていきます。

「書くのが止まらない」とは、どういうことなのか。

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■湧き出るアイデア

 より正確を期して表現するなら「書く直前まで思いもしなかったアイデアがどんどんひらめいて、まるで何かの引力に引き寄せられるように、書いているものにくっついてくるのをやめないので、書くのが止まらない」ということになるでしょうか。

 不思議な現象です。

 私が書く時は、できるだけ基本に忠実に、まず最も重要な場面シーンを思い浮かべ、因果関係プロットを創り、できたそれら因果関係プロット粗筋トリートメントとして編成し、できた粗筋トリートメント脚本シナリオとして立たせ、できた脚本シナリオ前後関係ストーリーをまとわせていき、その後点検チェック推敲及び洗練ブラッシュアップしていくという手法を取る、ということは前回お伝えしたとおりです。物語を創るに際して奇をてらわず、極めて基本的なやり方にしたがってシステマチックに動いている、ということです。(できあがったものがどんな印象であれ)

 最初、私は、何もわからないまま、書きたい場面シーンに到達することだけを目的に書いていました。もちろん因果関係プロット粗筋トリートメントという言葉も本当には理解していませんでしたし、かろうじて脚本シナリオがおぼろげにわかっていたつもりだった、くらいでしょうか。もちろんそれではうまくいかず、小説の書き方を勉強して、やっとなんとかそれらしいものができるようになってきたところです。

 けれども、書き始めてみると、どうも妙なことに、脚本シナリオはおろか、粗筋トリートメントや時には因果関係プロットまで改変してしまうような前後関係ストーリー台詞セリフが、頭の中に電撃的にひらめいては脚本シナリオにくっついてくるのです。強固な因果関係プロットで編成されたはずの粗筋トリートメントであっても、あとからひらめいた前後関係ストーリーのアイデアの方に引っ張られて(たしかに、こっちのほうがいいな)と変更してしまうことも数多くあります。

 この現象の不思議なところは、因果関係プロット粗筋トリートメントの段階で頭をうんうんひねっている時にはほとんど発生せず、脚本シナリオを立ち上げ、前後関係ストーリーをぺたぺたとまとわせている時に多く現れるということです。それこそひらめき、天啓、霊感、そういったたぐいのように思われます。

 本当にそうなのでしょうか?

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■蓄積した知識

 私は「無から有は生まれない」「あらゆる創作はまず模倣から始まる」と考えており、それが美神ミューズが授けてくれた、まったく身に覚えが無いアイデアのように感じられても、それはいつかどこかで体験した、もしくは見聞きした自分の中の引き出しからもたらされた物なのではないか?と思うのです。

 おそらく──

 子供のころから本や図鑑の虫で、長ずるにしたがって興味の範囲をマンガ・アニメ・ゲームと、物語系のサブカル方面に広げていった私は、膨大な量のストーリー展開やキャラクター設定を頭の中に収めているのでしょう。
 それに加えて、芸術、科学、異文化、時事ネタ、ゲーム、食べ物、お酒、Vtuber、ホラー、怪談、都市伝説などへの興味を、主に文字情報として摂取してきた私の方向性がそれを後押しし、その記憶が、設定しているはずのない端役はやくのキャラクターや、細かいところの言い回し、情景の描写、行動や言動の間などに、無意識の内に表れているのではないでしょうか。

 これらは普段、まったく意識をしていません。思い出そうとしても、思い出すことはできません。脳が創作という活動をしている時でさえ、『あの物語はこう展開していった』とか、『あの時に主役はこう言った』とかの大筋に関わることは思い出せても、細かいところまで思い出すのは無理です。しかし、創作の段階が進むにつれて、記憶の深層にしまわれている記憶がフラッシュバックのように、無意識の内に表れるようになるのだと、私は考えています。

 最初に創る因果関係プロットは、ほぼ自分のオリジナルです。それをつなげる粗筋トリートメントの段階で、早くも今まで見聞きした物語のつなぎ方を意識せずに参考にしていることは充分ありえます。粗筋トリートメント脚本シナリオとして立ち上がらせる場合、脚本シナリオ自身の持つ色と言いますか、風味といったものも、過去に自分が知った脚本シナリオの中から選択的に味付けしているかもしれません。脚本シナリオから前後関係ストーリーをまとわせていく段階になると、四方八方から自分が考えてもいなかった要素が──着せるはずのなかったドレスが──飛んできます。
『今までこんなアイデアドレス思いつかなかったのに、いったいどこから発想したんだろう?』『天啓だ!今、私は霊感を授けられた!』『これ、同じことをもう1回やれと言われてもむりだな……一世一代の仕事だよ』と思っていましたが、それが実は己の内に蓄えられた膨大な記憶の中から、創作中という極めて限定された条件下で、半ば自動的とも思えるようなアプローチで出てくるのだとしたら──

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■無意識下からの放射

 クリエイターのセンスと呼ばれるものは、いったいなんでしょうか。

 センスがある、とは、どのようなものを指すのでしょうか。

 センスがない、とは、どのようなものを指すのでしょうか。

 センスという概念に、正解、不正解はあるのでしょうか。

  いろいろな答えや解釈があると思いますけど、私はここで、センスとは「選び取る能力」であると考えます。文学的なセンスがあるとは、その題材に最適な文体や展開、表現を選び取って書くことができること。運動のセンスがあるとは、その目的達成に最適な体の使い方や筋肉の動かし方、ルールを飲み込み早く選び取って行うことができること。芸術のセンスがあるとは、その場所や見せる人に最適な表現や、新たな創造につながるような表現を選び取って制作することができること。創造的な行為においてすら、それは自分の中の何かを選び取る行為だと、私は考えます。

 では、何から選び取るのか。

 それは、自らの内に貯め込んだ知識、経験、体験といったものからだと思います。幼子にペンを握らせても文字を書けないように、知識や経験の無い人間がいわゆる「センスのある」文章を書くのは難しいのではないでしょうか。なぜなら、そもそも選び取る先の畑にある実りが少なければ、まるまると太った食べごろの表現を選び取るのは難しくなるからです。逆に、得た膨大な知識や経験をよく咀嚼して自分の血肉としているならば、それは選び取るまでもなく、表現の方からやってきて自らのペンに宿るのだと思います。自らの記憶の中にしまいこまれたその豊かな実りが、無意識下からあふれんばかりに放射された時、人はそれを「天啓を得た」と言うのでしょう。

 では「センスがない」とされる人はどうしたらよいのでしょうか。

 自分にはセンスがない、と落ち込むことは私にもあります。しかし、それは一瞬のこと。とにかく、感覚を研ぎ澄ますのです。自分にはできない、という思考を排除するのです。優れた人や作品に学び、ひたすらインプットに務めるのです。アウトプットしたときに、自分にはセンスがない、というのは、自分の中の選択肢の畑が貧弱だからです。もっとお水をまきましょう。肥料をあげましょう。表現という畑にほとんど何もないと嘆くなら、まず種をまくのです。

 それでも難しければ、まず批評から始めましょう。あれが良かった、これが不満だった、とレビューするのです。するとそのうち、「こうすればもっと良くなる」と思うところが出てきます。それこそが、創作の芽生めばえです。

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■クリエイターズ・シナプス

 そうして自分の中に表現の選択肢を積み上げたら、それがどんな条件下で活性化して飛び出してくるのか、その条件を探すのです。私が目下、探しているのはこれです。
 コラボ作品や二次創作作品をつくっているときに現れた、あの現象──書く直前まで思いもしなかったアイデアがどんどんひらめいて、まるで何かの引力に引き寄せられるように、書いているものにくっついてくるのをやめないので、書くのが止まらない──は、どのような条件下で発動するのか?

因果関係プロットの段階ではない。
粗筋トリートメントの段階でもほとんどない。
脚本シナリオの段階でちょっと出始める。
前後関係ストーリーの段階になるとあふれだしてくる。

 私は初め、集中力が深まれば深まるほど、この現象が起こってくるのではないかと考えていました。それまでつながれていなかった脳の神経細胞ニューロンが、新たに生成された接触構造シナプスによってつながり、最適と思われる構想や表現がひらめくのでは、と。

 しかし、そうではない気もします。過集中を起こして時間の概念を失っているときでも、湧き出るアイデアの量には差がありました。もしかすると「集中」している時ではなく「熱中」あるいは「没入」している時なのかもしれません。残念ながら、これらのニュアンスの細かい違いを説明することは困難です。強いて言うならば、物語の中に自分が入っているのが「熱中」であり「没入」、入っていないのが「集中」ということになるでしょうか。「迷い子/伝説の息づく町」でも「dbnさん二次創作ファンタジー」でも、物語のクライマックス近くになると、ほとんど降りてきた霊感だけで書いていたようなものでしたし、こちらの方が当たっているかもしれません。

 不思議なことに、創作中に構築されたニューロンネットワークは、創作が終わると、ほとんどが消滅するようです。あの状態を発現させるためには、まず自分の作品に対する愛着がわかなければならないでしょう。

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■終わりに

 今回のコラボ・二次創作で私が得たものは大きかったと言えます。自分の中に眠っていた宝の部屋の扉を開いた(かもしれない)と言っても過言ではないのですから。
 何よりも、今まで石橋を叩くだけでどこか満足してしまい、実際に渡ることの少なかった私に、行動に挑戦するよい機会を与えてくれたことは、特筆すべきことです。

 このnoteを読んでいらっしゃるみなさんの中には、企画やコラボをやってみたいけど自信が無い、自分の創作物にセンスがないように思えて自信が無い、と悩んでいる方もいらっしゃるかもしれません。

 だいじょうぶ。

 あなたの知識が少なく思えても、あなたの経験が足りないように思えても、あなたの脳細胞は、きっとあなたの思っている以上に、あなたに力を貸し与えてくれます。そこに年齢や経歴は関係ありません。どれだけ真剣に向きあうかだけが必要なのです。
 そして自分の作品を愛し、誰かが自分の作品を愛してくれるなら、あなたも私も、もっと没入できます。さらに熱中できます。

 そうすれば、きっとわかるはず。あなたの脳内でできた、新たなニューロンネットワークのつながりが、そうと知らぬうちに、あなたの創作を後押ししてくれます。

 熱中しましょう!

 没入しましょう!

 私はそう信じて、今日も新たな構想を練ります!


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今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

それでは、ごきげんよう。

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酎 愛零(ちゅう あいれい)
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