ゲームへの熱中、依存、義務
noterのみなさんはゲーム、やってらっしゃいますか?
どうも、2週間後に健康診断を控えているので禁酒を継続している私です。
「親のクレジットカードから勝手に課金」子どもの“ゲーム障害”規制は必要? 熱中と依存の境界という題でのニュースが気になったので、今回はつぶやきではなくテキストでお送りします。
私は、ゲーマーです。小学校のころから今に至るまで、TVゲーム、スマホゲーム、カードゲームなど、さまざまなゲームを楽しんできました。お家の居間でやるTVゲームは親に厳しめに制限されてきましたけど、PSPや3DSなどの携帯ゲーム機を持つようになると、3〜4時間は当たり前にゲームをしていました。まさに熱中です。
なぜそこまでのめり込んだのか?それは、子供の頃夢中になって読んだ物語と同じように、私の知らない世界がそこにあり、魅力的な登場人物が冒険を繰り広げる様に心を奪われたからです。甘美な恋愛を見ては我が事のように赤面し、熱い友情に胸を震わせ、苦難の末に達成した偉業に感涙し、食べたことのない異国異世界の美味に心を躍らせ、登場人物たちといっしょになって旅をしていたからです。
ゲームに限らず、上質な物語というのはそういう側面を持っています。見る者、読む者、プレイする者の心をわしづかみにして離さない、そんな魅力が、それらの創作物にはあります。私はある本に熱中していたころ、学校に行くのさえおっくうになって仮病を使って欠席しようとしたことがあるくらいです。これは依存と言うのでしょうか。
記事では、実生活に支障が出るかどうかがひとつの判断基準だと書いていました。それもまた正解には違いないのでしょうけれど、「それが無ければいられない」依存と、「それがつかんで離してくれない」熱中とでは、同じように見えて、実は根本原理が違うのではないか?と思うのです。
■依存、魂の逃避
私が思うに、依存とは、魂ごとそれに入り込んで、現実世界に背を向けてしまうことです。現実世界よりも創作物の中のほうが居心地が良く、学業や仕事はもちろん、基本的な生活さえできなくなってしまい、社会的・人間的な生活が著しく困難になることを、私は依存と定義しています。これは逃避と言い換えられます。こうなると、人間は、社会的生活を営む上で必要な基礎的な能力、あるいはそれまでおぼえていた決まり事や節度といったものがだんだんと剥落していきます。コミュケーション能力が極端に低下したり、支払い能力を超えた課金をしたり、犯罪に手を染めることを躊躇しなくなったりするのです。
言うまでもなく、これは危険な状態です。まともな社会生活を送れなくなるということは、家族単位の崩壊から、経済を回す労働力の欠如に波及し、社会そのものの維持困難に直結する恐れすらあります。また、現実に背を向けるということは、現実社会のルールやモラルなどを軽視することにつながり、犯罪の発生を助長する可能性も除外できません。ゲームに限らず、アルコール依存症やパチンコ依存症など、自分で自分を制御できなくなることが、依存の最も恐ろしい点であると言えます。
■熱中、平行世界
それに対して熱中とは、いわば平行世界の出来事と、私はとらえています。どれほど魅力的な世界で、のめりこんでも、それはあくまで自分の住む世界とは違う世界のお話だということです。この線引きがしっかりできていれば、プレイヤーはその世界での冒険を途中で切り上げて、現実世界に回帰することができます。これを可能にするのは、現実世界もゲームの世界に負けず劣らず重要で意味のある世界であるという認識にほかなりません。家族とのだんらん、友達との語らい、学校での勉強、会社での仕事などの現実が、ゲームの世界に没頭することと同等以上の意義を持つこと。これが何より大切な因子になります。
依存の人をただの熱中状態に戻すのが難しいのはこの点にあります。依存する人は──病的な要因でない限り──現実世界にゲーム以上の価値を見出していないのです。これでは平行世界になりません。ゲーム世界>現実世界なのです。この状態のまま、例えばゲーム機を取り上げたりしても改善は望み薄でしょう。取り上げられた側は、別の依存先を見つけるだけです。多くの場合、取り上げた側に対する激しい憎悪つきで。鬱屈した、納得できない現実にむりやり引き戻したところで、一度味わったゲーム世界の快楽を忘れることなどできないのです。
■義務、新時代の泥沼
ここまで記事にあった依存と熱中について考察してきましたが、私はここに依存とも熱中とも違うゲーム世界へのハマり方に警鐘を鳴らしたいと思います。
それは、義務です。
ゲームがオンライン化するにしたがって、この手の要因は増えてきたように思います。いえ、きっと始まりはそれよりも前、SNSが林立するよりもさらに前、いわゆるEメールを使った見知らぬ他人同士の交流が始まったころ、もっと言ってしまえば文通という文化が生まれたころにまで起源をたどることができるかもしれません。
要は、自分以外の誰かの存在により、自分もその土俵に上がり続けなければならない、という状態です。自分だけ降りるのは気が引ける。自分が降りると相手が悲しむ。自分が降りると相手に迷惑がかかる。もしくは、自分の存在が誰かの支えになっている実感がある。そんな理由で、辞めることができず、延々とたいしてやりたくもないゲームを漫然と続けて時間を浪費する、といった状態が、いわゆる義務なのです。
もちろん、義務と言っても破ったことによる罰則などがあるわけではありません。あるのはただひとつ、自分の中の良心の呵責です。期待されているから、頼りにされているから、楽しんでもらえているから、裏切れない。
私はかつてモンハン(モンスターハンター)シリーズをプレイしていた時、そんな状態でした。私の武器は、狩猟笛とライトボウガンです。これだけでわかる人にはおわかりいただけると思いますけれど、狩猟笛とライトボウガンって、支援が得意な武器なんですよね。つまりサポート要員だったんです。サポートがいるのといないのとではけっこう立ち回りが違ってきますので、私はほぼ皆勤賞でした。パーティのメンバーのために、休むわけにはいかなかったんです。同じようなことを今、スマホゲーム「ゴシックは魔法乙女」のギルドバトル(グループ戦)でやっています。チーム対抗で各メンバーのスコアの合計点を競うものなんですけど、私がチームの得点の1/3から2/5をかせいでいるので、抜けるわけにはいかないのです。正直もう引退したいんですけど。
ひるがえって、noteはどうでしょうか。noteに限らず、ブログや毎日更新するタイプのSNSをやっている人は同じような悩みや苦しさを抱えているかもしれません。始めから苦行をするつもりでやっているならいざ知らず、たいていの人は、日々を楽しくするためとか、自分の可能性を求めて始めてみたはずです。それが、いつの間にか書くのが義務になっている、スキやいいねの数字にばかり気が行って楽しくない、という状況に陥ってはいないでしょうか。スキいいね返しや、コメント返しに少なくない時間を費やしてはいないでしょうか。
趣味なのですから、やらなければいけないゲームや創作物などありません。スキやコメントの返しも、気がついた時、気が向いた時でじゅうぶんではありませんか。誰の目も気にしないのは困難かもしれませんけれど、真の熱中は、義務感の中からは生まれないと思います。
■終わりに
心のままに、自由に翼を広げ、人と人とのしがらみや、自分でこしらえた謎ルールに縛られない。なおかつ、戻ろうと思えばいつでも現実世界に支障無く帰還でき、創作世界と現実世界の住まう魂の均衡を保つ。これが、依存でも義務でもない、健全な熱中のしかただと、私は考えています。
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ゲームの話題とは少し離れますが、ことブログなど発信系のSNSをしていると、アウトプットばかりではつらくなるときがあります。それまで快調にぶっ放していたコンテンツが空撃ちになるような、自分の中の弾倉が残り少なくなっていくような感覚があり、それが続くとある日突然弾切れのようにがっくりとなにも書けなくなるのです。ここもバランスですね。おそらく、どれだけ経験を積んできても、人間はアウトプットだけするようにはできていないのです。(同じくインプットだけし続けるようにもできていないのでしょう)
どんなペースが自分に合っているのか、それを見定めるのも、ブログを続けるコツですね。
私?
私は……
てきとう、ですね……(キッチリしたスケジュールにはあこがれますけど)
今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、ごきげんよう。
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