身のまわりのデザイン その②:アフォーダンス理論
押したことのないボタンって、押してみたくなりませんか。私はこわいので押しません。
どうも、キリン 本搾りレモンを愛する私です。
先日、街なかにある多目的トイレを探索していたときに(理由は身のまわりのデザイン その①を参照)、とある公衆トイレの前で──と言いますか公衆トイレの軒下で、赤ランプが点灯してくるくる回っているのを見つけました。よくパトカーとか救急車とか消防車とかの上についているあれです。
赤色回転灯が作動している。すなわち緊急事態……!ひわわわわわわわ
おちつけ!まずは中に誰かいるか確かめるのだ。いたずらや押し間違いかもしれぬ。いや待てよその前に110番通報かしら?たしかこの手の対応では、中に不審者がいたり、悪意を持って傷病人のふりをしたりするヤカラがいたりするから、110番通報してくださいってどこかで見たような気がする。世も末よの!
緊張しながらスマホを握りしめ、トイレの前まで来ると──扉、開いてました。全開放でした。中は無人。一気に肩の力が抜け、見開いた目が閉じていきます。
……たしか、解除ボタンが近くにあるはず。中に入るとはたしてそれは、流すボタンの上にありました。その解除ボタンの隣が、発報ボタンです。配置としては
発報→■■←解除
■←流す
みたいな形です。けれど、その空いているスペースを埋めるようにしてウォシュレットの操作パネル類が壁にはりついています。
発報→■■←解除
ウォシュレット類→◼◼◼■←流す
◼◼◼
この配置……うーん、これは押し間違えるかなあ〜押し間違えるかもなあ〜と思いつつ、私は解除ボタンでくるくる赤ランプを止めたのでした。
■アフォーダンス理論
ここで思い出したのが、アフォーダンス理論というものです。いきなり突拍子もないことを言い出すと思わないでください、調べものをしているうちに見つけた単語なんです。
アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことである。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語であり、生態光学、生態心理学の基底的概念である。「与える、提供する」という意味の英語 afford から造られた。
wikipediaより引用
平坦で凹凸の少ない道と、坂道ででこぼこしている道があったら、ほとんどの人が平坦で凹凸の少ない道を選ぶように、環境が動物に対して与える意味──結果としての行動を操る因子のことをアフォーダンスと呼ぶのです。
1988年、ドナルド・ノーマンはデザインの認知心理学的研究の中で、モノに備わった、ヒトが知覚できる「行為の可能性」という意味でアフォーダンスを用いた。この文脈によるアフォーダンスという語義が、ユーザーインタフェースやデザインの領域において使われるようになった。
wikipediaより引用
今日においては、ギブソンの理論から端を発し、ノーマンが用いた、デザインにおけるアフォーダンスが広く認知されています。認知されているとは言っても、ほとんどの人がその効果を感じるまでもなく使用・利用していると言ってもいいかもしれませんね。
■デザインにおけるアフォーダンス
取っ手のついたカップ。これは、取っ手という環境あるいは形態が、「持つ」という行為をアフォード(提供)しています。
取っ手ではなく、平らな板(パネル)がついたドア。これは、取っ手ではないという環境あるいは形態が、「押して開ける」という行為をアフォード(提供)しています。
このように「見たり触ったりしたときに」すぐその用途を理解させ、また企図したように行動することを促す文脈で使われるのが、デザインにおけるアフォーダンスです。よく駅に置いてある「新聞・雑誌」「びん・缶・ペットボトル」「その他」と分けられたごみ箱の投入口の形状を想像してみてください。あれは、ああいうデザインにすることによって、投入するごみの分別を促すことをアフォードしていると言えます。これはユニバーサルデザインの項でご紹介した7原則のうち、使い方が簡単で自明であること、必要な情報がすぐにわかること、に通じるものがありますね。
私が中に入って確かめた多目的トイレの非常発報ボタンも、押しやすくわかりやすいという点では、アフォーダンス理論にかなったものであると言えます。いざというときにどこにあるかわからない、なんのボタンなのかわからない、では、非常ボタンの意味がありませんからね。
では、なぜ押し間違えるのか?
実は、デザインにおけるアフォーダンスには「経験を元にして特定の条件に特定の行動が関連づけられる」という面もあるのです。先に挙げた例でも、取っ手というものを知らず、ただカップというもののみを知っている幼子は、百発百中で最初から取っ手をつかむでしょうか。今まで実家のドアがスライド扉であった人が、押し引きするドアをついうっかり横にカラカラとやりたくなってしまうのはどうでしょう。
そう、デザインにおけるアフォーダンスは、体験の蓄積や、経験による思い込みによるところが大きいのです。▶は再生、◀◀は早戻し、■は停止、という意味を表しているのがいちいち取り扱い説明書を読まなくてもわかるように。虫眼鏡のアイコンのついているところの近くは検索条件を入力する欄であることが教えられずともわかるように。
この思い込みが逆に、使用や利用のちょっとした妨げになることがあります。
実際に私が体験したお話をしますね。
以前、旅行した際に、ホテルに泊まりました。9階建ての9階が私の部屋でした。なので、エレベーターに乗り込んだ私は、むぞうさに階数表示の一番上を押しました。けれど、一向にエレベーターは動きません。やや間を置いて、操作パネルについていたスピーカーから男性の声が聞こえてきました。『こちらァ防災センターですゥ。どうなさいましたかァ?』
これ、どういう事態かおわかりですか?
そう、私は最上階のボタンを押したつもりで、実は非常ボタンを押していたんです。そのエレベーターの操作パネルの配置は
非
⑤ ⑨
④ ⑧
③ ⑦
② ⑥
①
というものだったんですね。私はそれまでこんな配置の操作パネルを見たことがなく、一番上のボタンが最上階のボタン、と思いこんでいたんです。思い込みが招いた失敗の典型的な例ですね。(でもこれ、ちょっといじわるな配置だと思うんですよねぇ……)
今回の、多目的トイレに設置してある非常発報ボタンの配置をひと目見たときに思い出したのがこの記憶でした。たしかに、押しやすくわかりやすいボタンではあります。しかし、(個々人の経験に多少の違いはあっても)押し間違いやすいところにあるとも言えるのです。
■アフォーダンスを組み込む未来
悩ましいところではあります。実際に自分が多目的トイレで体調不良を起こしたところを想像してみてください。まず、ボタンの集中しているところに目が行きませんか?重篤であればあるほど、探している余裕はなくなります。すると、設置する場所は、おのずと絞られます。そこしかないのです。(たいていの多目的トイレには、倒れて起き上がることもできなくなった人用に、床に近い位置にも非常発報告ボタンが設置されています)
人命救助>押し間違い・いたずら
これは絶対に動かせない価値観です。たとえ押し間違いやいたずらによって発報したり、それによって空出動になったとしても、設置場所をしくじって助けを求める声が届かなくなるよりは、はるかにましなのです。
これからの時代にアフォーダンスを組み込む取り組みは、このバランス感覚が重要になるのではないでしょうか。
デジタルネイティブと呼ばれる層が増える一方で、その扱いについていけない層がいます。
体力の有り余っている若者が少なくなる一方で、体力の衰えた老人は増え続けています。
身体を過不足なく使える人がいる一方で、怪我や病気、障害などで身体を満足に動かせない人がいます。
大人たちが新しい「当たり前」を作り出す一方で、その当たり前を理解できない幼い子どもたちがいます。
経済活動、介護、医療、教育、これらの面でアフォーダンスを論じるとき、直感的に、簡単にわかるようにするデザインでさえ、そこには個人個人の経験則の差、そして能力の差があり続けます。きっと地球上に住むすべての人間が一律に理解でき、みんなが同じように利用できるデザインのものなど、そうはないでしょう。であるならば、どこかでバランスを見極めながら、「△△なら○○のほうがまだまし」という落としどころを探っていくことになるのでしょうね。
私も観光案内所でお年寄りのお客さまとお話しているとき、つい、相手もわかっているという前提で進めがちです。(スマホでの予約のしかたを説明するときなんかです!)
けれど、相手のとまどったような、ぼんやりと聞き流しているような顔を見るたび、(あっ、共通認識じゃないなこれ)と気づかされます。
自分の常識は、他人の非常識。
変容し続ける世界の中でも、アフォーダンス理論を常に頭のどこかに置いておけば、人と人との心的距離が重なり合う部分を見つけやすくなると思います。
職種間でも、世代間でも、「あの人とは合わないから」で切り捨てるのではなく、落としどころを探っていく方が建設的だと思いませんか?たとえそれが、多目的トイレの非常ボタンみたいに微妙な位置だとしても。
■終わりに
さてさて、それにしても今回はなにごともなくてなによりでした。これで中で倒れている人がいたら、人命救助レポートになっていたでしょうね!たまには、心肺蘇生法とか、AEDの使い方とかを思い出し練習しなくちゃです!
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、ごきげんよう。