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文学軽視から起こり得る問題とは【親に知ってもらいたい国語の新常識】井上志音、加藤紀子著

この本を知ったきっかけは、
こちらの記事です。

ここ数年で文学に興味を持つようになったので、
このような記事を見ると気になってしまいます。

高校3年間で文学作品を
1つしか取り扱わないというのは
どういうことかと驚きました。

高校時代の定期試験で
評論文と文学作品が
交互に出題されていた記憶があります。
現代国語の中に評論文と小説があり、
古文と漢文はまた別の単元でした。


・カリキュラム変更で扱えなくなった

リンク先の記事を読んで
「物理的な時間を考えると、これでは文学を扱うのは難しいだろう」と素人目にも感じました。

評論文への重きが大きくなったのは、
「論理的に読解できない人が増えているから強化しよう」という発想からだと感じました。

しかし、このカリキュラムの変更に、
著者のような専門家から
元国会議員の方まで疑問を呈していました。

私も「なぜこのような形になったのか」と
疑問に思ったくらいです。

・文学作品を読んでこなかった私が思うこと

高校生まではそれなりに読んでいましたが
大学生になってからほとんど読まなくなりました。
実用書に夢中になったからです。

読書仲間と話をして、
自分自身の視野の狭さを思い知らされました。
「読書家」と名乗れないくらいに。

苦しみや悲しみを抱えている人の気持ちを
想像できなかったっていうのが本音です。
今でも文学作品をよく読む人の話を聞くと
「私にはない視点を持っている」と感心します。

国語を学ぶ時点でそのような状態では、
かつての私のように視野の狭い人間が
増えてしまいそうと感じました。

・「あなたの意見はどうでもいい」

本書ではむしろこちらを問題視していました。
正直なところ、指摘されるまで盲点でした。

個人の体験や具体的な経験をないがしろにする風潮に拍車をかけているのではないかと危惧しています。

親に知ってもらいたい国語の新常識(井上志音氏の発言) p93

「文学を読んでも役に立たない」という意見に対して、そもそも実用性を重視して文学を読むことはないとのことです。文学作品を鏡にして「自分の実像を考えるのが文学の役割です。

「すぐに価値がわからないけど、
10〜20年後に実感するか、
そもそも気づかないうちに
生き方に影響を与えるもの」
と続けています。

ビジネス書や実用書のように
すぐに使えるわけではありません。

・感想

確かに論理的に読解できていない人が
増えているから強化しようという発想は
理解できます。

新井紀子さんの『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の問題提起が、カリキュラム変更に影響していると感じました。

しかし、だからと言って文学作品を軽視していいかと言われると話は別だと思います。
軽視してしまったら、私のような視野の狭い人間が増えていくのではないかと感じます。

以上、ちえでした。
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