純度と感度を高める
排泄欲について
ただ感じたものをそのまま出せば良い
というわけではない。
大事なのは純度。
自分の内側から湧き上がるものを
脚色せず何にも乗せずそのまま出す
ということ。
でもそれがなかなか難しい。
なぜならばたくさんのエゴやべきねばで
ねじれていたり埋もれてしまっていたりするからだ。
こう書いている最中も書きながら自分を探る。
これは本当に私のものか?
そう問いかける。
そのくらい自分の中の本当って
見えづらくなってしまってるんだよね。
(どんなことも間違いは無いのだけれど)
だからこそテハナシは必須だし
心と体の感度も磨いておきたい。
感度が下がると純度も下がる。
自分で自分の嘘に気づけない。
その感度を鈍らせているものは
この間の体験から「我慢」なのだと思った。
外側への我慢。
でもその前提には自分自身への我慢があって
そうしなければ愛されないという深い哀しみが存在する。
その心を開放すること。
傷付くことを避けて
寂しさから逃げて
自分をごまかし嘘をぬり固めていく…
そりゃ心も体も痛みや重たさを
感じられなくなって当然だよね。
同時に喜びや楽しさにさえ鈍感になってしまう。
なぜならば感情を選ぶことは出来ないからだ。
プラスの感情は良くて
マイナスな感情はダメ。
そんな器用なことが出来るほど人間はすごくない。
そしてこの世界は表裏一体なのだから
どちらかを切り捨てるとその反対側も
失われてしまうのが自然の摂理なのだろう。
どちらも引き受ける。
感じることを自分に許す。
本当の豊かさって
物を持つことでも
人より優れることでもなくて
心を開いて自分の感情をとめどなく
溢れ出させることだと 私は思う。
何も感じないって生きてる意味ある?
そうならないためにも心を開いて
感度の良い心と体を磨いてく。
そして感じるままに
自分の排泄欲を叶えてってあげること!
我慢はもうやめ。
そんなもん、
自分の中から捨ててしまおう。