
坂口恭平著「よみぐすり」
「死にたい」をやめて、人生を生き抜くための言葉たち。
私は、同僚を2人、亡くしている。
1人は女性、もう1人は男性。
2人とも、周りからは、何もかも上手くいって、キラキラと充実した人生を送っているように見えていた。
女性のほうは、イケメンのSEと結婚して、都内のタワマンに住み、小さな子供が2人いた。男性のほうは、海外で修士号を取得したエリートで、有名企業で働いていた。
2人とも30代だった。
私が20代のころ、女性タレントを世間の投票で格付けするテレビ番組が流行っていた。料理がうまそうな女、友達になりたくない女、モテそうな女・・・視聴者が投票し、ランキングが発表される。視聴者はタレントの本当の姿など知らないのだから、ただのイメージで投票している。良いテーマの上位に選ばれた女性は勝ち組で、下位は負け組。
亡くなった同僚は2人とも、周りから見れば勝ち組だった。
私は、2人と仕事以外で関わったことはないから、本人達の本当のところはわからない。
2人の死から、他者の評価と、本人が幸せかどうかは別物なのだ、と当たり前のことを思った。
それなのに、私たちは、このバラエティ番組のように、他人をあれこれ評価したり、自分を必要以上によく見せようと必死になったりする。
「よみぐすり」では、「好きなことがわからない」「やりたいことがわからない」について度々言及される。
「好きなことがわからない」のは、私も同じだ。
私の場合、高校生の時には、勉強ができること、期末テストで上位に入ること、良い大学に入ること、に躍起になり、「なにがやりたいのか」ではなく、「どこの大学に入るのか」が大事になっていた。
大学に入っても、特に学びたいことも、入りたいサークルもなく、やることと言えば、とりあえず真面目に授業を受けて、アルバイトに精を出すくらいだった。
だから、私の大学の成績はほぼ「優」だった。
基本的にどの授業も真面目に出て、真面目にレポートを書いた結果だった。新卒で入った企業の最終面接で「君の成績は素晴らしいね」と褒められた以外、特にいいことはない。
3年生でゼミに入った時、日本文学研究のゼミを選んだのは、とりあえず研究対象の本と、関連書籍を読めば、論文20,000文字書けるから、という理由だった。
自分の興味や好奇心に対する積極性の欠如は、この頃すでに発揮されていた。
本当は、文化人類学や民俗学に興味があったのだ。
しかし、学科を変えなくてはいけなくなるかもしれない面倒さを嫌がり、つつがなく単位を取得して卒業できる道を選んでしまった。
大学卒業後、入社したのは、地元の有名企業で、地元の国立大学出身、というだけで、周りはちやほやしてくれた。
(地方の企業というのは、東京の有名私立大卒者よりも、地元の国立大学出身者を重宝する傾向にある気がする。)
私は根が真面目で仕事を覚えるのも早かったので、なにかにつけて、業務の中心に置かれることが多かった。
上司から頼られ、同期や同僚とそれなりに楽しくやり、先輩社員の彼氏もいた。
周りから見たら、充実した毎日を送っているように見えただろう。
でも、なぜだか、私はむなしかった。
何者かにならなくてはいけない、と焦っていた。
いろいろな資格試験に挑戦して何かを掴もうとした。簡単なものは受かった。国家資格は、資格を持つことが目的で勉強しているからそれほど身に入らず、当然受からなかった。
誕生日、クリスマス、一年頑張った自分へのプレゼント等々、高いブランド品を買うようになった。
手に入れた時の高揚感は一瞬で消えた。
好きでもないのに、ロゴがついているだけで「それ、いいですね」と言われるものをたくさん持っていた。
毎日がつまらなかった。
「死にたい」ほどではないものの、近いものはあった。
会社行きたくないな、となると休んで、騙しだまし仕事を続けていた。
やりたくないことやって、うまくいってる人を見たことがない。
どんなに周りから幸せに見えていても、バリバリ働いてカッコよく見えていても、好きでもない仕事を必死にやり、仕事が出来ないといって同僚を見下し、好きでもない男と付き合い、他人の悪口を言いあって結束を強める人づき合いをして、疲れ果てていた。
私は、自分の好きなものだけを追求できる子供のころ、すでに、自分の好きなものがよくわからなくなっていた。
だから、とりあえず勉強を頑張り、周りから評価されることで安心していた。大人になったら「勉強」が「仕事」に変わっただけのことだ。
そんな風に30年以上も生きてしまった人間が、「好きなこと」や「やりたいこと」を見つけるのはやっぱり難しい。
なにか楽しみ見つけて楽しむ以外に生きる目的ないよね。(中略)自転車に乗ることを覚えたらちょっと遠くに行ける楽しみを知って、車の免許取ったらもうちょい遠くまでいける楽しみ。
このくらい、これが出来たらちょっとワクワクするな、楽しいことが増えるな、くらいの感じでいいんだ、と思った。
「生きがい」という言葉があるが、「やりたいこと」=「生きがい」のように捉えてしまっていた。
本の中でも、「好きなものをみつけるハードルが高すぎる」とあるが、「生きがい」は重たすぎる。
「好きなこと」ではなく、「生きがい」を求めていると妙な宗教にハマったり、偽善活動をしだす人になりそうな気がする。
自分のことがわからなくなっている人が、ある時「あなたには使命があるんですよ」と言われて宗教団体に入ってしまうのは、そういうことなのかもしれない。
私は、「好きなこと」を見つけるために、今までいろんなことをやってきた。
油絵、ギター、ピアノ、カメラ、ランニング、国際協力、英語、スペイン語、、、、。
今でも続いているのは、ヨガと読書で、最近始めたのはコーヒーの勉強だ。
ヨガは朝10分から15分ポーズをとる程度。レッスンには通わない。
読書は趣味というか、心の支え。
コーヒーは、とにかく奥が深い。知らないことを知ることが楽しい。
そして、このnote。
無理なく続くポイントは、やっぱり「何者かになりたい」感がないことだと思う。純粋に好きで続けること。
楽しくやることと、ラクしてやることは全く違うことだが、これで飯を食えるようになりたい、いっちょまえになりたい、と力が入ると急にハードルが上がって、続けることが難しくなってしまう。
本にも書いてあるが、とにかく続けること。
やってみようと思う。
続けているうちは、たぶん死なない。
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