快楽主義的人生哲学
「幸福とは、つきつめると快楽である」とは、よく聞く話だ。
そして、快楽がどこにあるかといふと、身体にしかない。
快楽といふと、もっぱら、ものを食べ、セックスをして得るものといふ感じがするが、知性を使って快楽を得る場合も人間には多い。
インテリな人は、ものを食べるのが止められなくて肥満してゐる人や、セックスの快感が人生で一番価値のあるものだと信じてゐる人などと、同じ人相風体をしてゐることが多い。
飲食やセックスの快楽について語る場合、その快楽を享受するのは「肉体である」としたはうが、快楽といふ言葉と相性がいいやうに感じられるが、知性による快楽のことも含めると、やはり快楽の源は「身体」といふべきだらう。
問題は、身体によって得られる快楽は、快楽主義者と自らを称して快楽を追求してやまない者にとっては、あまりに貧弱で実体がなく、まさに陽炎のやうに儚い。
だから、快楽を追ひ続けるにつれて、快楽主義者は虚無感にさいなまれ、顔つきはまるで「すべては空しい」と悟った高僧のやうなうつろなものとなっていく。
おそらく、真の快楽主義者なら、仏教的な無とか空とかに逃げ込まず、神や魂といったものごとにまで突き進んで快楽を求めてゆくだらう。
キリストを世界一の快楽主義者だと喝破したオスカー・ワイルドは、そんな、無謀ではあるが、愛すべき快楽主義者だった。
「人のためにわが命を差し出す。
これに優る快楽は、この世に、無い」
ワイルドは、獄中で、老いた受刑者の担ふ重荷を自分が代はりに肩にかつぎ、そのときの、老人の感謝の笑顔に接して、とろけるやうな快楽を感じた。
飲食はもちろん、同性愛も含めて性の快楽を味はい尽くしてあげくに虚しくなったワイルドの身体は、汚い老人の笑顔によって、終はりのないエクスタシー☆に満たされた。
それで、ワイルドは、キリストの秘密を掴んだのだ。
あの人は、十字架上で、まさに終はりのない快楽に身もだえしてゐたのだ、と。
我が身を捨てて世界を救ふ。
身体にとって、これに優る快楽は無い。
☆ecstasy
もとギリシア語ekstasis(「外」と「立つ」の合成語)
魂が世界を超えてある状態。
魂の脱離の意。
人間が神と合一した忘我の神秘的状態。
フィロン・新プラトン学派・中世神秘主義思想家の重要な概念。
(『広辞苑』より)