エロティシズムと死
わたしは、実際に姉がゐるので姉との肉体関係って想像すらできませんが、中絶されたか流産したかの妹がゐるのを二十歳前後に知ってからは、その妹がエロティシズムの対象になってゐます。
妹は、わたしにとっては、想像の世界、つまりはイデア界の住人だからです。
男性は性描写のあるポルノを書き続け、性描写のあるポルノを読み続けます。
読み続けるのは、食べても食べてもやはり時間が経てば空腹となり、また、さらに食べ続けるのと同じで、読んでも読んでも性的快楽に満ち足りることが無いからです。
性的な快楽には満ち足りるといふことがない。
だから、(愛情の確認ではなく)性的快楽を求めるセックスは、エロティシズムと繋がります。
プラトンは絶対なる善や美はイデア界にあるとしました。
善はすでにある。美は確かにある。
けれども、そのことを人間は生まれるときに忘れてしまった。
学びを通してこそ、それを想ひ起こすことができる。
とプラトンは、考へました。
この想起への意欲は、イデアへの憧れによって火が点きます。それがエロスとして姿を見せます。
エロスには、絶対の善や絶対の美に接近するといふ高揚感が伴ひ、性的なイデアの場合は、イデアに接近してゐるといふ思ひから生まれる高揚感の高まりが性器快感として体験されるため、性器快感の追求と重なります。そのために、性器快感をいったん感じ始めると、さらに求めて求めて止まらなくなる。男性が激しく腰を動かす様子が、性におけるエロティシズムの実例です。
ポルノを書き読み観つづけることは、あの滑稽なほど狂ほしいピストン運動と仕組みは同じです。
インターネットポルノをたくさん見て思ったのは、これよりは、まだ、小説のポルノのはうがエロティシズムがあるといふことです。
キリスト教がアガペーを尊重したのは、アガペーは官能を通さない愛の追求だからです。
官能を頼りとするエロスは、ともすると、性の快楽の追求となり、しかも、性の快楽は決して成就しません。後から振りかへると、時間の無駄、人生の空費といふことになります。
それで、キリスト教はエロティシズムそのものを禁止しました。
かうなると、たださへ手の届かないイデアが、禁忌を得て、ますます手の届かないものになり、困ったことに、だからこそ、官能はそれを想起しようと必死になります。
インターネットポルノより小説のポルノがエロティシズムに近いのは、映像そのものを見せてくれないといふ障害があるからです。禁忌と同じく、エロスの行く手を妨げるものがエロスにガソリンを注入します。
小説の中でも、禁忌が扱はれてゐれば、より、いっそうエロティシズムに近づき、快楽はいや増すやうに感じられます。
母と息子、教師と教へ子、父と娘、兄と妹、そして、不倫や乱交パーティー、さらにサドマゾ、なんでもいいから、世間が許さない関係になら、そこでなら、快楽が手に入ると期待が持てます。
ただ、かうした期待を持って、生涯、ポルノを書いたり読んだり観たりしてゐるのは、どうも、男性だけであるやうです。
男性は、やはり、女であることから切り離されてしまったことで、存在そのものがエロティシズムとなってゐると思はれます。
人間が手を伸ばしても伸ばしても、あとほんの少しのところで届かないもの、その中で、最もエロティックなものは、死です。
どんなに死にたい、死にさうになった、と言ってゐても生きてゐる限り、死は常に(たとへ1ミリにせよ)ほんの少し手の届かない先にあります。
生きてゐる限り、死を体験し味はひ、これが死だと把握することは出来ません。男性にとっての性の快楽と同じです。男性は女性の持続する絶頂感を羨ましげに眺めながら自分は、溜まった小水を排出するときの感覚を一瞬味はって虚無感に落ちてゆきます。
男性は、ともすると、殺したり殺されたりして死ぬことが多いですが、それはY染色体のせいだそうです。Y染色体を持って生まれると、殺人強盗をする確率がx染色体だけの人に比べて百倍以上に上がるとか。
確かに、刑務所に収容されてゐる殺人犯や強盗犯の九十九%は男性です。
武士道とは死ぬことと見つけたり
といふ言葉も思ひ浮かんできます。
性の快楽を追求すると、男性の場合、射精後の死に終はりますが、性に限らず、男性が人生を充実させようとする、何か確かなものを得ようとするなら、その先には自分の死が見えてくるはずです。
死が見えない方向なら、それは、男性の生き方としてはゴマカシ、女の真似であるといふことだとわたしは思ひます。