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現代アートの価値とは? ~閉じられた世界の実態~
「価値」とは何か? アート市場のカラクリ
ある作品が何億円で取引された、あるいは世界的な美術館に収蔵されたと聞くと、さも「価値あるもの」のように思えてしまう。しかし、その実態はどうだろうか?
アート市場は投機対象としての側面が強く、作品の「価値」とは、美的観点からではなく、「どれだけそれっぽい理屈をつけられるか」にかかっている。デュシャンが便器を作品として展示した時点で、アートは「作品」そのものではなく、それを説明する「屁理屈」に依存するようになった。例えば、庭先で拾った石ころでも、それっぽい理屈をつけて美術館に置けば「作品」になる。逆に、どんなに美しく精緻な絵画であっても、適切な理屈がつかなければただの「趣味の作品」で終わる。
これは、美術館で展示される作品を見れば一目瞭然だ。あなたがもし「これはガラクタでは?」と感じたなら、それは正しい。しかし、アート業界の人々は「この作品は〇〇を象徴しており〜」と理屈をこねてくれる。その理屈こそが「価値」なのだ。
葛飾北斎は「アート」を作っていない
ここで、葛飾北斎の話をしよう。彼は「世界的に評価される日本のアーティスト」だが、実は一品ものの作品はほとんど作っていない。彼の浮世絵は、版画として大量に刷られ、庶民が手軽に楽しめる商品だった。言ってみれば、現在のポスターや商品の包装紙と同じだ。
なぜ北斎が一品ものを作らなかったのか? それは、一品ものは誰か一人のためのものであり、広く流通しないからだ。つまり、作品が「個人を喜ばせるだけ」か「蔵にしまわれるだけ」になる。一方、大量生産された浮世絵は、庶民の手元に届き、人々の暮らしを彩った。彼の作品が評価されるのは、それが「普遍的な美」を備えていたからであって、「それっぽい理屈」をつけられたからではない。
「現代アート」はカルトか?
現代アート業界は、閉じたコミュニティの中でのみ価値が成立している。「この作品はすごい」「これは社会への問いかけだ」と言われても、一般の人々はピンとこない。なぜなら、それは業界内の人間か、彼らに感化された一部の人間だけに通じる言語ゲームだからだ。
この構造は、まるでカルトに似ている。外部の人間には理解不能な価値観を共有し、内部の論理だけで作品の評価を決める。そして、その評価を正当化するために、業界の中で互いに賞を与え合う。
例えば、大阪府が買い上げた現代アート作品がずさんに管理され、まるでゴミのように扱われていた事件があった。これは、一般人の目線から見た「現代アートの価値」を象徴している。業界内では認められた作品が、ブルーシートを被せて放置。つまり、現代アートとは、業界内でのみ通用する「価値」なのだ。↓↓
税金で食うアーティストたち
この業界が持続するのは、公的資金が流れ込んでいるからだ。トリエンナーレや公的なアートイベントは、アート界の縦社会を維持するための仕組みであり、そこには上納金や利権が絡む。だからお金がかかる。
食えないアーティストが乱立しているが、彼らは「偉大な作品」を作ろうとは思っていない。目指すのは「楽できる社会的ポジション」だ。一度アート業界に食い込みいいポジションを取れば、講師や教員としての給料や補助金で食っていける。この構造は、公務員的な腐敗を助長するシステムと同じだ。一度就任すれば安泰、実績がなくても業界の中で回してもらえる。そういうポジションが多く存在する。
現代アートは、「公金チューチュー」の温床であり、税金を使った「社会的に意味のある活動」という大義名分のもと、無価値な作品が大量生産され続けている。
「コンセプチュアル・アート」の幻想
現代アートの多くは「コンセプチュアル・アート」と称される。作品自体の美しさよりも、そのコンセプトに価値が置かれる。確かに、「なるほどね!」とコンセプトが理解できた瞬間、ちょっとした感動があるかもしれない。しかし、それは4コマ漫画でもできることだ。わざわざ巨大な作品として表現する必要性がほぼ全ての一般人には理解できない。
絵に感動するのではなく、情報に感動している
もしあなたが美術館で、一枚の絵の前で涙を流している人を見かけたら、こう言ってあげてほしい。
「あなたはこの絵に感動していないよ。この絵にくっついた情報に感動しているんだよ。」
現代アートは、投機的価値、理屈、業界内の評価、それらがなければ、作品はただの「もの」にすぎない。
アートは本来、人を感動させ、喜ばせるものだった。しかし、現代アートはどうだろう? それは本当に「価値あるもの」なのか? それとも、ただの「仕組み」に感動しているだけなのか?
あなたはどちらだろうか?