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#6 『罪と罰』を途中まで読んだ

名前は知っているけれど今後ずっと読まなそうで、さらに自分としても特段読みたいと思っているわけでもない本を、今さらとか思わずにあえて読んでみる、というのをここ2・3年続けています。

そういうわけで『罪と罰』をちびちびと読んでいて、いまは上巻を読み終え、下巻の序盤のところにいます。学生の頃に一度手を出してすぐに挫折したこの小説を読むことも、自分の中ではあえての範疇でやっていることなのでだいぶ気が楽です。

『罪と罰』が初読どころか、恥ずかしながら初ドストエフスキーだったので(正確には『カラマーゾフの兄弟』の序盤を齧った程度)、どんな骨太な文が出てくるのかとおっかなびっくりだったのですが、読み始めたら意外にも軽い文体で、なんなら大衆的と言ってもよい語り口で勝手に肩透かしを食らった気分です。そして強く感じたのは、この物語は類稀な脳直さで書かれているな…ということでした。

「何のって、いまわたしの顔をまともにみながら、わたしが豚だと、きっぱり言いきる勇気がですよ?」
「ソーネチカ、ソーネチカ・マルメラードワ、世界あるかぎり、永遠のソーネチカ! 犠牲というものを、犠牲というものをあんた方二人はよくよくはかってみましたか? どうです? 堪えられますか? とくになりますか? 分別にかないますか?」

登場人物のセリフが終始こんな感じで、何度も演劇化してきたというのも納得のハイテンションな多弁ぶり。面白いのたまいを見つけるたびにバシバシと付箋を貼っています。それといわゆる思弁的なキャラのありようから町田康の『告白』はわりと和製『罪と罰』だったのだということもわかりました。ただし町田康と違ってドストエフスキーの場合、本当に作家が酔っぱらって書いている、もしくは口述筆記してもらっているのが、文体からも非常にまるわかりなので、正直いって少々付き合いきれない感じすらあるのですが、それが主人公のラスコーリニコフ、彼の悪友たち、あるいは酒場で出会う酔っ払いの精神性とぴったりマッチしてる部分でもあり、作品として心技体が伴っている、という点がいいですね。

プロットとは関係ないところで印象的だったのは、主人公の夢の中で馬が民衆に殺されるシーン。会話や思弁とはまったく異なる状況で、純粋な暴力が異様に精密な筆の運びで続くところが作品に陰影を与えていてよかったです。自分がいま読んでいる下巻も基本的には多弁・のたまいの嵐でしょうが、ドストエフスキーはやるときにはとことんやるやつだというのがこの夢のシーンで分かったので、そこらへんにも期待しつつ、今後も読み進めたいと思います。

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