語り尽くされてても語りたいこと:天童荒太さん
"包帯クラブ"という映画をご存知ですか。
2007年に日本で公開された映画です。
わたしはこの映画が好き。
高校生のワラ、ディノ、タンシオ、ギモ、テンポによって作られた包帯クラブ。ネットに作ったホームページで、依頼者の心が傷ついた場所を募集し、そこに包帯を巻き、カメラで撮影し、ホームページに上げる。ワラ、ディノ、タンシオ、ギモ、テンポ、それぞれにも傷があり、物語はそれぞれの傷にも寄り添う。
ディノの感受性があまりに強く、そこまで考えなくては、行動しなくてはいけないのか?と思ったわたしがいた。だが、それはディノにとっては真剣そのもの普通のことだった。わたしは、ディノの感受性を感じなくてはいけないと思った。ディノは異国の地で起きる紛争や貧しい子どもたちのことを思い、裸足で登校したり、泥水を飲み、他にもいろいろしていた。一見何やってねん!の一言で片付けてしまいそうになる。わたしも最初はそうだった。ディノは、不器用にも、傷に寄り添っていた。擬似的かもしれないが、異国の地で起こる想像を越えた境遇にいる人々の状況を味わおうとした。わたしの感受性は、まだまだだ。ディノはまっすぐすぎる。ディノの感受性は、学校という受け皿におさまらない。ディノには、過去に傷がある。映画の中で明かされることは、ディノだけの傷じゃない、それは映画を見るすべての人になんらかのかたちで当てはまるだろう。
演じる俳優たちが、瑞々しく、生き生きしている。
誰かの傷を自分のことのように想い、自分に、自分たちに何ができるのかと考え、寄り添う気持ちは、身近な人から遠い国の人にまで届く。
きれいごとかもしれないが、きれいごとにしかできないことが必ずある。
これから、"包帯クラブ"の映画を見る人がいるかもしれないので、あまり内容に触れたくないが、ディノの次の台詞が印象的だった。
「包帯一本巻いて世界が変わったら、めっけもんや!」
映画音楽をハンバートハンバートが奏でている。楽器の音色が、2人の声が、映画の中の世界を登場人物をやさしくたくましく包みこんでいる。
"包帯クラブ"は元々、天童荒太さんが書いた小説だった。映画がきっかけで、わたしは天童荒太さんを知り、"包帯クラブ"の小説を何度も読んだ。2022年には、続編小説も発表された。
天童荒太さんの著作に、"悼む人" という小説がある。事件や事故に巻き込まれて亡くなった人々を"悼む"ため全国を放浪する青年・坂築静人の物語。わたしは、本を読み進める中で、静人の感受性にドキっとした。静人が全国を巡り、"悼む"のは、自身とは関係のない人々だ。何が、静人を突き動かすのか、そして"悼む"とは何なのか。"悼む人"と併せて、"静人日記"も読んだ。"悼む"という行為について、考えもがきそれでも歩き続ける静人の生き様が書かれていた。
天童さんの紡ぐ物語には、静かな問いかけがある。その問いかけは、永遠の問いかけ、ゆるぎなく、普遍的で、生きとし生けるものが必ず出会うもの。たとえば、何のために生きるのか、どうしていのちに終わりがあるのか、どうして人は争いあうのか、この地球に人間が存在する意味はあるのか。
すぐに答えを出す必要なんかない、考え続ける中でしか答えはでないのかもしれない。静人は考え続けていた。あの姿勢にわたしは、今までのわたしを恥じ、わたしなりの答えを出し、誰かと話したいと思った。わたしにとっての答えはあなたの答えと違うかもしれない。答えを変えたっていいし、変わり続けたっていい。あなたの答えに影響を受けたっていい。大切なことは、自身の内なる声に従ったのかってことじゃないかな?
"永遠の仔"という小説を読んだことを、今思い出している。わたしにとって、あの読書体験で感じた光と闇は、脈々と流れる血のように今も、心中を巡っている。読み進めるのがつらいときもあった。でも、救いを求める登場人物たちの生きる姿勢を見逃したくはなかった。
天童さんの紡ぐ物語は、今日も読者の心の内側に静かに問いかけを置くのだろう。そこから始まるのは、まぎれもなく、読者自身の人生という物語ではないだろうか。わたしもわたしの物語を紡がなくては。