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『教育の基礎としての一般人間学』森章吾-ゲリラ的質問の会を想像して-

森章吾さんが企画していた「『教育の基礎としての一般人間学』のゲリラ的質問の会」。
もし開かれていたら、…と想像して、その一端を追悼として書きました。
Mは森さんをイメージしたものですが、おそらく森さんならもっと開かれた答えをしたことでしょう。筆者は、35年来の知人・友人として、kindle版の訳と勉強会でのレジュメを読み返し、この稿を書きました。くだけた表現も、親しさや敬意の表れだと思ってご海容くださると幸いです。ただし、内容についての文責はすべて筆者にあります。

問い 「これからの教育においては、意志と感情の教育を大切にしなければならない」とありますが、それについて詳しく知りたいです。
M そうですね。感情は実践されていない意志ですから、おもに意志の教育について見ていこうと思います。
「意志と感情の教育」に関しては、繰り返しが鍵を握っていますが、その意味では、コスパやタイパが幅を利かせるような現在の状況は、子どもたちにとっては厳しい状況だと言えるかもしれません。ただ、シュタイナーが言うように、希望は、やはり芸術的な取り組みでしょう。そこでは、繰り返しに喜びが伴いますから…。
また、時々勘違いされるのが、繰り返しの意識的なものと無意識的なものについてです。霊的な観点では、意志は夢のない眠り(熟睡)の状態で、感情は夢見状態です。このことから、「意志、眠り(熟睡)」の方を「無意識」と結びつけがちになりますが、第6講の図表の矢印の向きからもわかるように、意志の方が感情よりも目覚めに近いと言えます。つまり、意志の教育に必要なのが意識的な繰り返しであり、感情の教育に必要なのが無意識的な繰り返しです。
シュタイナーは、感情が優位の子には、教師もそれによりそうように働きかけ、意志が優位の子には意志的な動作と認識を結びつけるように指示しています。例えば、歩くことと文章を唱えることを同時に行うことなどです。

問い シュタイナーは人間の意志を分類(階層化)していますが、そのことが意志の教育とどうかかわるのでしょうか。
M シュタイナーは人間の構成要素と結びつけることで、意志を七つに分類しています。まず一つ目は肉体と結びついている本能です。動物ではそれは形姿に現れています。(…ここから、動物の形姿と本能との結びつき、例えば〈牙〉がいかに〈噛みつく〉と関係しているか、など、豊富な例が示されつつ、話が転々とする…略。)
ここで、人間の意志を大きく三つのカテゴリーに分けて、その方向から考えてみたいと思います。
まず、下位の構成要素(肉体、エーテル体、アストラル体)と結びつく、本能、衝動、欲望
そして、現在の人間の魂の中心である自我と結びつく動機
最後に、上位の構成要素(霊我、生命霊、霊人)と結びつき、現在は萌芽の状態でありながら、未来において芽吹く、願望、意図、決意
この、上位の構成要素と結びつく、願望、意図、決意とは、「次の機会にはよりよくやろう」「よりよく行うにはどうしたらよいか」というもので、人間であれば誰もが内に担っているものです。そして、願望はいつも動機によりそって響いています。
教師は、子どものこの高次の意志から発してくるものに耳を澄ませなくてはなりません。なぜなら、それは「かすかに」響いてくるものだからです。もちろん、そのようにしても、すぐには聴こえてくるようにはならないでしょうが…。
第二の、自我と結びつく意志、つまり動機ですが、これはもっとも人間的な意志だとも言えます。人間的というのは向上や発展を含むと言う意味です。シュタイナーは、人間には、時として、理性だけからではない、つまり感激、献身、愛からの行為があると言います。そして、それは、共感が意志の中で非常に支配的になり、境界を越えて意識化されている状態です。いつもは無意識にとどまっている共感が、感激、献身、愛などの例外的状況で意識に上った、その現れなのです。
(今、筆者自身も、森さんへの溢れる感謝の思いからこの稿を書いている。そしてこの溢れる共感が死後へと向かうはずである…。)
この行為は、対象への愛から、自らの行為への愛へとつながっていきます。シュタイナーがこの流れで、『自由の哲学』をとりあげているのは当然のことでしょう。自由な行為においては、反感と共感を超えた純粋思考が鍵を握っていますが、この純粋思考には同時に意志も働いているのです。
最後に、下位の構成要素に結びつく低次の意志、本能、衝動、欲望、特に子どもの本能の中にある共感に対しては、教師は反感を注ぎ込む必要があるとシュタイナーは言います。この共感は表象で見たされ、表象で照らされる必要があるのです。もし幼児の共感的本能衝動が生涯続くなら、その子はその本能の下でいわば動物的に成長してしまうからです。
本能に注ぎ込む込むべき反感をシュタイナーはモラル的理想と呼びます。このモラル的理想が、生涯、共感的本能衝動に対抗するのです。
ただし、子どもに、モラル的理想をそのまま、つまり道徳的なお題目として与えることは許されませんし、効果もないでしょう。それは寝ている子に「いい子でいなさい。」と言うようなものだからです。「いじめはダメだ」というスローガンは、霊的な意味で目覚めている人には効果があるのかも知れませんが、子どもはそうではありません。教師は、このモラル的理想(反感)を(共感的)ファンタジーで包んで子どもに届けるのがよいでしょう。(発達段階にもよりますが、例えば、他の動物をいじめていたキツネがどのような末路をたどったか、また、聖人が自らの困難な運命にどのように立ち向かったかなど、いろいろと工夫ができると思います…)

………話は尽きなかったことでしょう…。

シュタイナーは、感覚が能動的・意志的なものであること、また、悟性による死せるものの把握と意志による生命・成長するものの把握という二つの要素を超えた純粋思考、さらに「死と再生が私の内にあること」を論じたあとで、地球進化における人間の役割について論を展開していきます。
その部分を記して、この稿を閉じます。

人間は誕生時に受けとった物質や諸力を、生涯刷新し続け、変容させて地球プロセスに譲り渡す」と言えるでしょう。…絶えず超感覚的世界から感覚的世界へ流れ込んでくるものを、地球の進化プロセスに受け渡すのです。…こうして人間は、超感覚的世界から物質的感覚的世界への滴を絶えず仲介しているのです。…人間が誕生とともに受けとり、死に際して大地に譲り渡すこの滴は、絶えず大地に実りをもたらし続ける超感覚的諸力であり、これによって地球の進化プロセスが保たれるのです。

『教育の基礎としての一般人間学』ルドルフ・シュタイナー著 森章吾訳 より


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