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まぶた、銀色の世界

 藍色の夜が沁みる。私は目をつむり、夜を追い出し、かわりに眼裏の景色を眺めることにした。
 金色に縁取られた景色はいつもどおり美しい。遥か遠い山々の稜線に、あふれんばかりの緑。さんさんと零れる陽の光。そして世界の中心にその人はいた。
 白い体毛がきらきらと光り、彼女の周りだけは夜の神秘が香っていた。彼女は人ではなく、神でもなく、どちらかと言えばその外見は獣に近く、けれども実は獣でもない。鳥でもなく虫でもなく、また植物でもない。ただ確かに言えることは、彼女が雌であると言うことだけであった。
 彼女は、一日に一度だけ、かぼそい声で鳴く。けれどよく耳を澄ませてみれば、それは鳴き声ではなく人語であった。
 幼女のようでありながら、妖婦のような響きをもつその不思議な声音を耳にしたものは、かならずその日のうちに熱を出した。ひどく汗をかき、一晩中うなされ、下手をすれば一年も二年も病みついた。しかし中には二日ほどで熱が引く者もおり、それらの者は後々非常に富を得た。
 だからだろう、月に一度ならず、彼女の口もとへ耳を差しだして過ごす者がいた。それらの大半は病みついたあげく、ひとりやふたりは途次で命を落としたが、やはり、ほんの数人の男たちは生き残った。
 青年も、そんな命知らずの馬鹿者たちのひとりに違いなく、彼女のかたわらに腰を下ろし、声を待っていた。
 彼女は、ほとんど数十年前同じ場所に膝を折り、微動だにしない。陽が照れば灼かれ、雨が降れば全身ぐっしょりと水を吸って重くなった。その体は小柄なむすめほどだったが、豊かな銀色の毛に包まれ、肌は見えない。一握りの毛玉のような姿からは四肢も胴も把握できず、かろうじてその発せられる声で、頭部らしき場所が分かるだけだった。
 滝と流れる銀色の毛をかきあげて、彼女の顔を見たらどうなるだろう。青年は思うが、もちろん実行する気はない。そんなことをして、せっかくの声を聞き逃したら台無しだ。せめて青年は瞼をつむり、銀色の毛にひそむ美しい顔貌を想像しようとした。
 眼裏の闇は、けれど闇ではなかった。景色は金色に縁取られていた。遥か遠い山々の稜線に、あふれんばかりの緑。さんさんと零れる陽の光。そして世界の中心にその人はいた。
 白い体毛がきらきらと光り、彼女の周りだけは夜の神秘が香っていた。彼女は人ではなく、神でもなく、どちらかと言えばその外見は……これは何だろう、青年は思う。眼裏に結ぶその景色こそは、今俺がいるこの場所ではないのか。
 目を開けば、彼女がいるだろう。眼裏の景色そのままの様子で……もしかすると今にも口を開いて、鳴き声を上げるかもしれない。
 青年が目を開くと、世界はあどけなく横たわっていた。その素朴なまでの無垢の世界の中心に、彼女がいる。青年はその口もとと思しき場所へ耳を差しだし、聴いた。
 やわらかな呼吸音だけだった。まるで眠りの底にいるかのようなその息の根は、青年を心底ほっとさせた。同時に、ある想像が青年のこころをとらえた。
 彼女はずっと眠っているのではないか?
 ここに膝を折ったその日からずっと眠り続けているのではないか?
 何故、そんなことを思ったのだろう。そして何故、信じたのか。
 青年は彼女に寄り添い、その心臓が波打つのがきわめて遅いことを知った。彼女は眠っているのだ、青年の妄想はおもむろに確信へと傾き、彼は狂った。
 銀色の毛に顔を埋め、やわらかな毛の流れに手を差し入れて、青年は彼女の存在を思う存分確かめた。ゆっくりゆっくり指を動かし、彼女の輪郭をたどり、最後にそこへゆきついた。
 まぶた。
 ふたつの穏やかな眼を隠すそれを優しくなぞると、青年はその隙間に指をすべりこませた。
 まぶたが、開く。
 世界に、亀裂が入る。
 空の淡い青が割れ、山々の美しい稜線に罅(ひび)……ささくれが捲れるように、世界はやわらかにそり返り、そのとき、ふいに鳴き声がきこえた。
「……やめて、痛いの」
 青年の鼓膜はつんとなり、それから一切の音が遠のいた。彼女の鳴き声を浴びた青年は嬉しさのあまり涙をにじませながら、家路をたどり、家の戸を開けるなり倒れこんだ。
 高熱にうかされながら、青年は幾晩も続けて夢を見た。銀色の彼女と睦みあい、戯れながら、ふとした折に銀色の毛のうちの瞼に触れた。
 今度は彼女は拒まず、彼の指を好きなようにさせている。薄らかな瞼はとうとう彼の指によって開かれ、のどかな景色は裂け、崩れ、かわりに藍色の夜が世界を支配した。
 あぁ、よく寝た……満足そうな彼女の吐息を聞きながら、青年は静かに息を引き取った。
 夢は夢、現は現……次の日も彼女はあの場所にうずくまり、微動だにしなかった。銀色に輝く毛のうちに瞼は隠され、開かれることはない。

#眠れない夜に

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