朝顔より木乃伊の生ず
ごめんください、と言うと、開いてるよと返事があった。
少しばかりざらついた女の声音は何処となく蓮っ葉で、私は緊張してしまう。思わず戸を叩く手を握りしめ、ざりりと草履の裏で地を擦った。
いっそ逃げてしまおうかと思った。
ここまできてそれも意気地がないが、それでもいい。このまま駆けて帰ってしまえばどんなに気が楽なことか。母の怒号が飛ぶかもしれない……それでもいい、逃げてしまおう。
意識はそう思うのに、けれど足は動かない。
握りしめたこぶしを開き、そっと眼前の戸を開けた。
からり、存外軽い音をたてて戸は開いた。逡巡する私の心情など知ったこっちゃない。
眼前にひらけた景色はひどく明るく、爽やかだった。
夏らしく建具がすべて簾に替えられており、開け放たれた障子から縁側が見える。塀にたっぷりと繁る朝顔の緑、ぽつりぽつりと滴る花の彩……
濡れ縁から流れ込む陽にひたされて、小さな座敷の中央に女が座っている。
膝には大きな猫の姿。
女はゆっくりと猫を撫でながら、すでに私を眺めている。
「あの……」
それだけを言い、私は黙ってしまう。
だって続けて何を言えばいいのか。
私はこの家の突然の闖入者だ。それもおそらく、悪意をもった。
「何だい、まだ子供じゃないか。何か用かえ」
いかにも玄人女らしいものいいに、私の舌はますます怖気づく。
私自体に悪意はない。それはきっと女も気が付いていることだろう。問題は私が背に負う、母の存在なのだ。
「あの……」
もう一度言って、言いよどむ。
父ちゃんを返してもらってきな、確かに母はそう言った。
時折物狂いのようなってしまう母を私は止めることが出来ず、その狂気の言動にその都度つきあってきたのだが、このたびばかりは本当に困惑した。
妾のところに入り浸る父の袖をひいて帰ってこい、などと。
物狂いでなければ、とてもではないがそんな言葉は喉を通るまい。頷かねば母にぶたれるのが目に見えていたから、泣く泣く私は路地へと走り出た。
お待ち、と母。わずかな希望に私が足を止めると、母は家の奥へと一度引っ込み、何やら小さな包みを片手に戻ってきた。
それを手渡し、こう言う。いいかい、それと交換してもらっておいで。
包みを開けば、それは何のことはない朝顔の種なのだ。
誰かのほくろの滴りを両手で受け止めたかのような、黒々と小さな種の群れ。わずかな希望の芽は摘まれ、朝顔の種とともに私の胸に絶望が舞い降りる。
そのまま走って、ようよう父の妾の家へと。
そばを通るたび母が嫌味をこぼすので、場所を覚えてしまった。それがこんな形で役に立つのは業腹だが、母はそんなことすらお見通しだったのか。
「何だい? 煮え切らないねぇ」
女がため息とともにこぼし、その吐息の気配の甘さに私は一瞬の眩暈をおぼえ、ぶんぶんと頭を振った。
「あの、父はどこですか? 迎えに来ました」
震える声でそれだけを言うと、女がすっと目を細めた。
「やっぱり、あのひとの子供かい。どおりで、似ていると思ったよ」
懐かしそうな目で私を見ると、腕のなかの猫を撫ぜる。猫は大人しく女の腕のなかで丸まっており、いや、違うあれは……
「でも、駄目だよ。あのひとは返さないよ。もう、あたしのだからね」
愛おしそうに抱き上げて接吻するのは、猫ではない。
やわらかそうな断面を見せる首、蒼白な顔貌。
今まで猫だとばかり信じていたそれは決して猫などではなく、私が迎えに来たはずの父だった。
けれど、首だけ。
首から下は忽然と消え、丸々と存在感を放つ頭だけが残されていた。
「そうだ、俺は帰らない」
まるで子供が駄々をこねるように、父の首がつぶやいた。
蒼白な顔面に、なかば鼻梁は傾いており、ただれたように赤い唇と今にもこぼれ落ちそうな見開かれた双眸。燦然と腐臭を放つその首が、けれど何故だか喋るのだ。
「おまえはひとりで帰りなさい」
「そら、聞いただろう。おまえの父ちゃんはもう帰らないんだよ。ずっとここにいるってさ。母ちゃんにそう伝えな」
女は勝ち誇ったように言い、私は言葉を失った。
握りしめたてのひらに、ふいに痛みを感じ、見やれば朝顔の種。
黒々と凝縮するそれに、私は一縷の望みを託し、
「……これと、交換してください」
女は私の差し出すてのひらに視線を転じ、それから憫笑。
「ああ、可哀そうにねぇ。そんなものと交換するもんか。母ちゃんは頭がおかしくなっちまったのかい」
腹を抱えて笑い崩れた女の膝から、父の頭が滑り落ちる。奪おうと足を踏み出し、手を伸ばし。けれど寸でのところで女に阻まれた。
「可哀そうな子だねぇ。このまま帰すのも気が引ける……ちょっと待っておいで」
女は私のてのひらから朝顔の種を掬い取ると、庭に撒いた。
床に転がる父の首を拾い、それから座敷の奥へと――大きな衝立があり、その向こうには朝顔の映える庭がある。私は女に踏みつけられたてのひらを慰めながら、ただ、ぼうと庭の陽を見ていた。
やがて、女が衝立の向こうから現れた。片腕に何かを引きずっている。
庭からの陽を背に受けて、女の引きずるそれは黒々と逆光になっていた。
私は呆然とそれを眺めた。近づくにつれ、仔細がはっきりと浮かび上がってくる。
肉なのか、肉塊なのか、父なのか、死体なのか。判別がつかず、せわしなく瞬きをくりかえす。
女が言った。
「ほら。これを返してやるから、お帰り」
果たして女が差し出したものは、肉であり肉塊であり父でありまた死体でもあった。甘い腐臭をまとうそれは、ただ首から上だけを失って、力なく床に沈んでいる。
「……どうしたの、早くおしよ」
黙っている私を見て、女が癇性に眉をゆがめた。母にも共通する癇の虫をこの女もはやり飼っているのだろうか。思えばおそろしく、かつて父だったものに手を伸ばした。
それはぐずぐずに形が定まらず、持てど掴めど液体のように地を目指して渾身の力を滴らせる。私がいくら頑張って背負おうとしても無駄だった。
「……まあ、そんなに重いの」
女は呆れたようにつぶやいて、
「ちょっと、茂さん。しゃっきりおしよ」
ぐずぐずの肉塊にささやいた。
現金なもので女の声に励まされたのか、それまで液体のようだった父の体はしゃんと芯を得、ひとりでに立ち上がった。ゆうらりゆうらり夢遊病者のように右に左に傾きながら、それでも一歩、踏み出した。
「ほら、それを返してあげるから。母ちゃんにちゃんと言うんだよ」
女の声を背に受けて、私は父の胴体を追った。
ああ、口惜しい口惜しい、母は言って畳のうえを転げまわった。
ざんばらに乱れる黒髪のうねりが恐ろしく、私は父の胴体の陰に隠れている。
ああ、口惜しい口惜しい、あの女あたしを馬鹿にしやがって、こんちくしょう、こんちくしょう、涙の混じる声音に、私は母がひどく可哀そうに思えてき、けれどその何十倍もおそろしく、声さえ出せずに眺めるしかない。
……ああ、口惜しいねぇ。
顔一面に涙の痕をつけた母がのそりと半身をもたげ、首を上げ、そっと上目遣いでそれを見た。
私ではない、私の隣、ただ朴念と立ち尽くす父の胴体を。
ぞろりと背筋を虫が這うのを私は知り、一刻も早くこの場から逃れたいたいとそう思う。母の腕が、父の胴体へ伸びる。
畳のうえの阿鼻叫喚。
いや、それとも乱痴気騒ぎ。
気狂いになった母には息子の目などないも同然。首を失った父の胴体をあろうことか押しひしぎ、その上に乗って恍惚と。
その場を逃れればよいものの、私の足は棒となり、その異様な光景を最後の最後まで見つめ続けた。
あの人を返してもらっておいで、母が言う。
その隣で首のない父が胡坐をかいている。母は貪欲だ、私は思う。父の胴体を手に入れておきながら、さらに頭までも欲するなど。けれど口が裂けても言えないので、私はおとなしく頷く。母が手渡す朝顔の種を握りしめる。
「また来たのかい」
呆れた声音で女は私を迎え入れる。朝顔の種を受け取ると、ぞんざいに庭に撒く。庭には朝顔の緑が滝のように繁り、ぽつぽつと花がこぼれ咲く。そしてその根方に、髑髏。
「ああ、本当にしくじったねぇ。こんなに早く駄目になっちまうもんかね」
肉が腐れ、あっさりと髑髏になった父の頭を見下ろして、女は忌々しそうに舌打ちをする。
「そっちはまだまだお楽しみなんだろ。ああもう貧乏籤にもほどがある」
そう言いながら、それでも甲斐甲斐しく父の髑髏に水をやる。
朝顔を種から丹精するように、父も丹精しようと言うのだろうか。乾ききった髑髏になった父はもう前のようには喋らない。時折、鼓膜を直接揺るがして何か言葉を伝えてこようとするのだが、私はあわてて頭を振って追い払う。今更、父の言葉など聞きたくはない。
何度、女の家を往復したことだろう。
母と父の胴体は以外に睦まじくやっている。昼になっても閨から出てこないことがあるのは閉口するが、どうやら母は身籠っているらしい。膨れはじめた腹を構う様子もなく、二人は日夜睦みあう。
それに比して、干上がっているのは皮肉にも父の妾の方だ。庭に植えた髑髏に毎日水をやりながら、恨めしそうな顔をしている。一向に育たない髑髏の代わり、朝顔ばかりがよく繁る。
「あら、おまえ大きくなったねぇ」
ある日唐突に気が付いたように女が言う。
私は笑う。
私はもう子供ではない。青年と男の狭間。髑髏ばかり見て過ごした女は気が付かなかったのだろう。
「……おまえ、名は何と言ったっけ」
女の眼差しを得るまでの数年、私は女を眺めつづけたので、彼女よりはるかに彼女のことを知っている。微笑、舌打ち、髑髏への睦言……女は確かに父を愛したのだろう。鏡のなかの私は、往年の父そっくりだ。
「敏郎」
「いい名だねぇ」
女はうっとりと目を細め、そっと私の胸に寄った。
女と睦みあうとき、しばしば庭から視線を感じた。
横目で見やれば、髑髏。
すっかり肉も筋も失ったというのに、いまだに女への未練ばかりは残るらしい。
鬱陶しいので、砕いて粉にしてしまう。粉を練って、夕餉の汁物に入れてしまった。
女は庭の髑髏が消えたことにさえ気が付かない。
庭からの眼差しが絶え、私は芯から清々した。
表の戸が叩かれる。
開ければ、小さな子供が立っている。
「誰」
問えば、
「返してください」
ひとこと、震える声でそう言った。
「なにを」
「兄ちゃんを返してください」
その一言で、私は全てをさとった。
母の腹の子は無事産まれたらしい。
「母ちゃんは元気か」
戸のそばに立てかけてあった鉈に手を伸ばし、私はできるだけ優しい声を出す。可愛い弟を怖がらせてはならない。
「……兄ちゃんを」
「分かってる。叫ぶんじゃないぞ」
ささやいて、鉈をふるった。
みずみずしい感触とともに、異音。
ぐるりと視界が裏返り、けれどそのまま。
首は跳ね落とされる中途で止まってしまったらしい。ぶらぶらと揺れる視界のなか、青ざめた子供にささやいた。
「これ、切り落としてくれないか」
血でぬるつく鉈を差し出し、
「ほら、母ちゃんが待ってるんだろ。早くしな」
背後の座敷で眠る女に気づかれぬよう、言った。
「いいか、ちゃんと頭のほう持ってけよ」
了