今さら『ケイコ 目を澄ませて』を見てみた
はじめに
2024年6月2日、多くの人々が数年前のパンデミックを過去に押し流しコロナ以前の生活を取り戻しているように見える。過去とはそのようなものなのだろう、意識して思い出すことはないがしかし、不意をついて思い出されることは多い。2022年12月に上映された『ケイコ 目を澄ませて』を見るのが大分遅れてしまったが、上映当時にみなくてよかったと思っている自分もいる。本作品の舞台はまさにコロナ禍が設定されているが、その当事者としてではなく、過去のものとして検証の距離を取ってみることが出来るからだ。その意味でも過去の大事件に取材した作品を、年月を開けて当事者外のものとしてみることの意義は大きい。と言いつつ、この映画を通して感じたことは、コロナ禍という社会情勢を反映させた感想になったような、ならなかったような。まずは書いてみよう。
音とカメラが澄ますもの
くの人達が真っ先に気付くのは沈黙の中に響く環境音、そして何より画面の粗さ、と言えば良いだろうか。デジタルではなく一昔前のフィルムで採ったような画の質感である。実際に本作品はデジタルではなく、19mmフィルムで撮影されたらしい。強調される環境音と光の表現が19mmフィルムの質感と重なり、全体を通して温かみと情緒的な雰囲気が生み出されている。
と同時に、とりわけ注目されるのはカメラの使い方、つまりはカメラがその場その場で何を映しているかであろう。ケイコを中心としてその周囲の空間を映す、あるいは風景、そして、ケイコと見ず知らずの他者とのやりとり。当然主人公のケイコは耳が聞こえないため、会話は身振りをはじめとする非言語、手話、筆談に限られる。耳が聞こえないという主人公のために、声を出さないシーンが多用されるため、カメラが果たす役割は大きい。
にもかかわらず、作品全体を通して、ケイコ自身が風景に溶け込むことも少なくない。そこでは一応カメラはケイコを中心に捉えているが、むしろカメラはケイコを後継に退かせ、一時的ではあるが風景の一部として主人公の特権性をはく奪しているように見える。ケイコが世界のなかにどのように在るのか。と同時にケイコが今いる世界はどのような姿を取って彼女と対面しているのかを明らかにするような映し方、それは映画の観客である私たちそのものでもあろう。
前述したように、声を出さないシーンが多用されるということは、身振り的な性格の映画(と言って、ニュアンスが伝わるだろうか。身振り的であることは後述するテーマ性にもつながってゆく。)になっている、解釈を観客に要求する作りである。そのために観客は1シーンを見逃してしまったら物語の筋を追うことが出来なくなる構造を持ち、常に目を澄ませて映画を見続けるという姿勢を取らざるを得ない。これは普段ケイコが周囲の人々に対して向けている視線(本作ではそれがマスクによって口元が見えないことによって無化されてしまっている。)あるいは作中人物(弟、会長、母)がケイコの事を常に見守っているように、ケイコを取り巻く人々の姿勢でもある、この映画に関わる人々は観客も含めて全て、目を澄ませるという態度の内に一元化されていく。
今私がこの文章を書いている時、外は雨が降っている。音楽やテレビの音は流れていない。ひたすらに雨音と、換気扇の回る音が連続して聞こえているだけだ。私たちが環境音に耳を澄ませることは存外少ない。だが今改めて耳を澄ませると空想に心を遊ばせていない今ココにいる自分の空間、つまるところ自分の実存と言うものがほのかに浮かび上がってくるような気がする。そのまま連想を別のところに横滑りさせてみよう。(早くも空想に心を遊ばせて実存から離れるという過ちを犯しているが、ご愛敬願いたい)もうおおまかな内容しか思い出すことはできないが、どこかで「映画を見た後、しばらくは人間の形を保っていられていない自分に気がつく、数分経つと自分は自分の形に戻ってゆく」といった内容の短歌を詠んでやけに感動したことがある。実存とはそのようなものなのだろう。
閑話休題、環境音の強調が私たちに目を向けさせるものは何だろう。それはとりもなおさず、空間性の強調とも言えるのではないか。昭和から代々続くボクシングジム、ケイコの自宅、トレーニングの河川敷…環境音の強調がむしろ空間性を浮き彫りにする。と同時に、今ここにいる、実存への沈黙の叫びにも思われてならない。
ケイコが居場所としているのはこのような場所だろう。中でも河川敷は家やボクシングジムのような明確な自分の居場所とは少し異質な場となっているように思われる。公私の交わるあわいの場所であり、ここの環境音で強調されるのは川や電車の流れである。ここで会長が医師に言われて言葉を思い出す。「見えていなくても変化は着実に起っている」家やボクシングジムとは違い、河川敷は時間の流れを明確に感じ取ることのできる場として設定されているのだ。
この河川敷が捉える範囲は広い。それはコロナ禍における閉塞感への抵抗や、河川敷を通した会長とケイコのやり取りからは、ボクシングジムが閉鎖するという、まるで方丈記を思わせる無常観を読み取ることすらできるだろう。このようなこのような無常観は一方でサイレント映画の手法を取り入れることで普遍と言うアンチテーゼに結びつけることも可能かもしれない。とはいえ、これらは既に幾度となく語られてきた言説であるし、ことさらこの作品を通して、強調したいものにはならないはずだ。
言葉からの解放、場を開いてゆく
ここで一気に最後のシーンに話が飛ぶが、ここででケイコが対戦相手と相対した場所も河川敷である。公私のあわいに設定されているこの場はケイコが他者と、あるいは他者がケイコと出会う場面として設定されているのだ。ただそれはほんの数秒の出来事であったが、対戦相手であれば、今後再び出会うこともあるだろう。(再試合をするかもしれないし、スパーリングの相手になるかもしれない。或いはジムの移籍に伴って練習相手になるかもしれない。)
ただし、ケイコが対戦相手と再会することが出来るのは、彼女がボクシングを続けた場合の話であろう。実は映画の最初ケイコが何かを書いているシーンによって、ボクシングをやめることを既に考えている。そしてジムの閉鎖はパラレルに語られていることが後々に判明するような造りになっている。だがこの時点ではケイコは何を書いていたのかは分からず、ジムから人がいなくなることしか私たちには見えていない。ケイコの問題は隠されているが、伏線を張りつつ、しかもケイコの特性によって見つめる側(観客、あるいは作中人物たち)はケイコの内に抱えている問題に触れることが出来ないし、ケイコ自身も語ることが出来ないジレンマを抱えつつ進行していく。前情報がない人がこの映画の冒頭を見たら、主人公は気難しい、愛想が悪い主人公だろうと思うだろう。ジムでの振る舞いや弟とのやりとりにしても、戸惑いや剣呑さから物語が始まっている。語られない伏線がただ張られるわけではなく、配置される理由が主人公に根拠づけできるという巧みさがある。
だが当然彼女は気難しい、愛想が悪い女性では決してない。
繰り返すが、本作品ではジムの閉鎖という、ケイコが好きな居場所がなくなることがドラマを生み出しているが、彼女自身もボクシングを辞めるが続けるか。その選択を迫られている。が、問題はその葛藤にとどまらない。彼女はジムの閉鎖が知らされた後、弟と話をする。弟はケイコに向かって悩みを打ち明けて欲しいと頼むがケイコはそれを「いったところでどうにもならない」「人はどうせ独り」と言って、その要求を突っぱねる。ケイコは自身の悩みをうまく表現出来ない、内面を開くことが出来ないのだ。
これは同時に彼女と取り巻く人物との距離間としても現れる。前述した冒頭の姉妹の会話はどこか剣呑さと、弟の戸惑が見え隠れするし、ケイコが試合勝利後に行われた会長のインタビューではケイコがボクシングをする理由を問われた際、会長はうまく返答することが出来ない。彼らもまたケイコを測りかねている。だが前述したように、彼らはケイコに対してひたすらに目を澄ませ、見守り続けている。その視線はあたたかい。
これは言葉によって疎外されてしまうという彼女の特性がもたらすある種の宿命だろうか、それとも、彼女の人間性に起因しているのか、いずれにしても言語的な表現を封じられたケイコを救うのはやはり他者であり、非言語的な交歓である。
彼女の詳らかな内面が初めて語られるのは、会長が倒れ、病院でベッド生活をしている時である。そこで会長の妻はケイコの日記を代読し、会長に読み聞かせる。中身はトレーニングのメニュー。その日の感想が1,2行書かれているだけの者であった。それでもこの代読のシーンではやっとケイコの内面をたどたどしくも感じ取ることが出来るカタルシスがある、だが同時にこれをカタルシスによる解決と捉えるなら、結局言語におけるコミュニケーションが優位であることを示唆してしまいかねない。それは非言語的なコミュニケーションを他者よりも頼らなけれなならない彼女をやはり疎外する遠因になりえないか。であれば、このカタルシスはどこから来るか。恐らくケイコの内面を知りえたところから来るカタルシスではない。ここで注目しておきたいのは「代読」という自分ではない誰かの手を借りることで表現できたというであろう。
彼女の日記を読んだ時、映画ではモンタージュ的にケイコの日々の生活が無音状態で描かれる。これは作中登場人物が見ていない(見えていない)ところでのケイコの姿であるが、日記の内容を聞いている人物たちは、ケイコの普段の姿から、自分たちのいないところではどのように生きているのだろうかと想像をしているはずだ。あの無音に流れる彼女の時間は、同時に他者の想像の世界ともいえる(無音であることも、作中人物たちは想像している)そしてそのように彼らが想像できるのは、普段ケイコの事を見続けているから。その振る舞いや身振りの中に何か意味があることを知っているからだ。とするならば、彼らにとってのカタルシスはケイコの身振りそのものに潜む表現の豊かさに他ならない。彼女の言葉を聞くことで、むしろ言葉にならない身振りにあたらめて目を向け、その豊かさに直面する。そのカタルシスではないだろうか。
逆説的であるが、私たちにとって言語での意思疎通よりも、非言語によって意思が通じることの喜びは大きいことは、連想ゲームで互いに同じ想像をし合った成功手体験を思い起こせば、容易に理解できる。そういう非言語的なやり取りの喜びは特に、会長から帽子をもらう場面(記号の共有)、弟とその恋人との非言語的なやり取り(ケイコはボクシングの動きをハナに教え、花はダンスをケイコに教える)トレーナーである松本とのコンビネーションの上達(映画の進行につれて、彼らのコンビネーションがうまくなる過程が語られている)等、映画中にちりばめられている。
彼女の抱える葛藤が浮き彫りにするのは、言語的なコミュニケーションが本質的に持つ暴力性(その言語が分からなければ、お前は会話に参加できないという疎外を強いる暴力性)、そしてそのような閉じられた空間ではなく、身振りに潜む観主観的な交渉に、開かれた人間関係の芽生えではなかろうか。従ってその意味で前述したように身振り的に作られている本作品もまた、観客と観主観的な結びつきを果たそうと私たちに優しく歩みよってくれている。
さいごに 映画と私たちがつながるために
その意味で最終場面が河川敷と言う、ケイコの私的な空間ではなく、しかし他者にとっても私的な空間ではない、両者のあわいである河川敷に設定された意味は大きい。もう一度ラストシーンに戻るが、ここでの対戦相手は私たち他者の化身だったのではないか。ケイコの生活の中では彼女を取り巻く人物だけではなく、コンビニの店員、ホテルの男性従業員、すれ違うサラリーマン等、他者も多く登場している。これら他者は同時に観客である私たちそのものの姿でもあろう。この映画を見ながら、私は他者もケイコと会長のようなつながりを、名も知らぬ誰かと交わすことはできないのだろうかと考えていた。このままではどこか観客が置き去りにされてしまうのだと。しかし終盤では従業員男性がケイコに熱心に教わろうとする姿が映し出されたり、対戦相手がケイコに挨拶に行く。これまであれば互いが互いをすれ違ってゆく場面であるにも関わらず、つながりを示唆するシーンが挿入される、観客は映画の世界に、それはつまりケイコに象徴されるような非言語的な交わりの喜びの世界に参入してゆくきっかけが芽生えている。取って付けたような言い方になるが、コロナ禍で人間的な交わりが断絶した世界に大きな示唆を与えているといえなくもない。最後のシーンではケイコは河川敷を走り出す。彼女の葛藤が解消されたのかどうか。それは最後まで明示されなかった。だがそれでも人生は続くのであり、葛藤と向き合いつづけなければならない。この映画を見た私たち観客もまた、ケイコのように断絶や葛藤を抱え、幽かにつながりの萌芽を感じ取りながらも決定的な解決に至らないまま、それでも走り続けねばならない。