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好きこそ物の上手なれ
今年の1月1日にnoteを始める時、1年間毎日欠かさずアップしようと決めた。何か明確な目標があったわけでなく、強い意志をもっての事でもない。
続ければ何かが変わると願をかけたわけでも、怠惰な自分の成長を目指したわけでもない。
結果的に続けられたのはとくに力こぶを入れず、腹が減ったらメシを喰う、眠くなったら横になる程度の、日常のノルマくらいの意識にとどめていたからだろう。そこに何らかの意味付けをしてしまうと、とたんにしんどくなったに違いない。
どんな駄文であろうと読んでいただき、感想までお寄せいただくnoteやXの皆様の存在があったことが、とてつもなく大きい。
エラそうな表現になるが、僕という個人を語りながら、誰にあっても共有されそうな普遍性を前提にしたのは、読み手という他者の存在を意識したからに他ならない。
ひとつの記事をまとめるのに平均で2~3時間、ものによって5時間以上かけたのは、うちなる欲求があったからでも、テーマとすべき対象があったからでもない。
何もないところから始めて、それまで自分でも気づかなかった未知の感覚に出会えたことは、面白い経験だった。あぁ、自分の中に言語化されない意識が、これだけ眠っていたんだと気づかされたのだ。
僕は割と、広いジャンルの音楽を聴いてきた方だろう。その中から特定の名前や曲を挙げては、俎上に載せてきた。
ただしそれはあくまで素材であって、エリントンやモーツァルト、ルー・リードや遠藤憲司を”布教”したい意図があったからでは決してない。
音楽体験はその人のみに起きた出来事であり、同じ空間で生演奏を聴こうと同じレコードに出会おうと、個々にもたらされるものは全く異なってくる。
共有できるものがあるとすれば、それは固有名詞ではなく、”それ”に触れることで生じた心の動きの方だろう。
富士山を見たいと願い続けた人が生涯にただ一度目の当たりにした瞬間と、その気になれば毎日でも拝める僕のような清水区民では、対象が同じ富士山でも、受ける感動の質は明確に違うはずだ。
どちらが幸せと一概には言えぬにせよ、僕なら前者を羨ましく思う。生きる事・生きてきたことに意味を見出す、もの凄い体験になるからだ。
もの凄い体験というのは、圧倒的な自然の美や音楽に接したときに限らず、演劇、文学、美術、映画など、いわゆる高度な「芸術」に触れた人であれば、きっと身に覚えがおありだろう。
いいオーディオやカメラの再現性も、これに当てはまるかもしれない。僕なら昭和のプロレスや落語も、この枠に入る。
「雷に打たれたかのような」「魂を揺さぶられる」「人生が変わった」としか表現のしようがないほど、圧倒された体験を過去に一度でもお持ちなら、その感覚だけは誰しも分かち合えるはずだ。
僕が拙い文章で表したかった普遍性とは、その一点に尽きる。
本音を言えば今日も、さりげなく終わるつもりでいた。
ネタを上田馬之助とタイガー・ジェット・シンにして、ご両者の徹底した悪役ぶりと、あまり知られていない真逆のエピソードの数々に触れ、締めくくろうと思っていた。
しかしまぁ、貴重なお時間を割いてお読みいただき、ときにはレスポンスまで返していただいた皆様に、ご挨拶抜きのフェードアウトは失礼に過ぎるだろうと思い直した。
自分の文章が誰の目にも触れず構わないと嘯くなら、なにもnoteやXに公開する必要はない。
自分では認識せずとも、アップすること自体が承認欲求の顕れであるなら、きちんとケジメだけはつけておいたほうがいい。
そこで最後に、せっかく1年間継続したことだけは紛れもない事実だから、「継続力」について短めに考察しておく。
まず、混同しがちだが「継続力」と「持続力」は異なる。
後者の「持続力」とは、長時間集中して物事に取り組む力のことだ。
テスト前に何時間も集中して勉強する、一つの物事に長時間取り組むなどが挙げられる。
粘り強く諦めずに課題に取り組むことのできる持続力は、「精神的な力」を示す言葉になる。
「継続力」とは、あることを一定周期で続けて行う力を指す。
毎日勉強を続ける、毎朝ジョギングをする、毎週本を読むなど、習慣的に行うことであり、僕のnoteもこれに当てはまる。
継続力とは、毎日コツコツと水をやり続け、植物を育てていくイメージかも知れない。少しずつの努力を積み上げることが、いつしか大きな成果につながるわけだ。
そして持続力が「精神的な力」であるなら、継続するとは何かしらの、具体的な「行動」である。
継続力とは「物事を諦めず取り組み続けられる能力」のこととも言える。
一度取り組んだら投げ出したりすることなく、やり遂げるまで続けられる。それはその人の、資質によるところが大きいだろう。
その資質にさほど恵まれていない僕のような人間にとって続けられない(続かない)理由とは、取り組む対象が「楽しくない」と言う一点に尽きる。
逆にそんな者であっても継続を可能にする原動力があるとすれば、自分の興味や関心、好奇心といった内発的動機が大きく関係しているのではないか。
「好きこそ物の上手なれ」
自分の過去、趣味、関心事に徹した結果が366回の記事に繋がり、そうでありながら自己主張を極力避けたことで、継続性が生まれたんだろう。
続けるうちに自身の中に眠る未知の価値観に気づき、それが更なる継続を可能とし、いつのまにか「継続する」事のハードルが下がっていったんじゃなかろうか。
あまり意識することなく始め、noteに取り組んだ1年間が、明日から始まる2025年にどう生かされていくか。折々にご報告出来たら、幸いである。
最後に、1年間イラストを拝借した「アトリエはなみ」様に心からの御礼を申し上げます。
いつも仕上げの段階で、公開されているフリーイラストから画像を選ばせていただきました。
本来であれば、無粋なオヤジの記事と美しい女性のイラストなどミスマッチの極みでありますが、必ずこちらのイメージに沿うものを見つけ出すことが出来たのは、柔軟な貴女の感性の賜物と深謝いたします。
本当に、ありがとうございました。
今後一層のご活躍をお祈り申し上げます。
それでは皆様、次の機会(明日だったりして😅)にまたお会いしたく、年末のご挨拶とさせていただきます。
良い年をお迎えください。
Atelier hanami@はなのす