なごりの世代
かぐや姫のアルバム『三階建の詩』で、リーダーの南こうせつは「メンバー全員に平等に印税が入るよう」それぞれに曲作りを提案したという。
伊勢正三にも曲作りのノルマが課され、結果として『22才の別れ』『なごり雪』という不朽の名曲が生まれた。
実際のところはわからないが、内的動機からでなく外からの後押しによって『22才の別れ』が作られたというなら面白い。
2つの曲には、共通のテーマがある。
それは「目の前にあった幸せに すがりついてしまった」にしても、「大人になると気づかないまま」であったとしても、心変わりした女性がおそらくは夢見がちなままの男を見限り、現実的な選択をする歌であるという点だ。
おそらく彼女たちは親の薦める縁談の相手を選び、捨てられる側の男たちを善き青春の思い出として残しておきたいと願う。
ひとつだけ こんな私のわがまま聞いて くれるなら
あなたは あなたのままで
変らずにいて下さい そのままで
男からすれば理不尽極まりない仕打ちであるのに、不思議と聴くものに怒りや不快の感情を抱かせない。湧き上がるのはどこまでも切なく、甘美な敗北感のみである。なぜだろう。
ここで対象となる「男」を「終わった時代」、「女」の方を「次に来る時代」と置き換えてみると、なんだか合点のいく気になるのだ。
発表された1974年が「22才の別れ」になったなら、永すぎた「5年の月日」が始まるのは、1969年になる。
それはどんな時代だったか。
1月2日には、奥崎謙三による昭和天皇パチンコ狙撃事件が起こっている。
一般参賀の昭和天皇に向かって、奥崎が手製のゴムパチンコでパチンコ玉3個を発射したものだ。
奥崎のような複雑な人物を一概に左翼と括ることはできないまでも、暴力による革命を是とする時代の空気があったことは否めない。
1月18日から19日にかけては、東大安田講堂攻防戦が繰り広げられる。
それ以前より、全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた。
大学から依頼を受けた警視庁が約8500人もの機動隊を導入して、1969年(昭和44年)1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。
東大内での逮捕者は600名以上。この影響から、東京大学の入学試験が中止されている。
この事件以前まで、学生運動に共感を持つ人々が、実は多く存在していた。
「学生は世の中をよくするために身を挺して立ち上がっている」という意識や、学生運動を「若者のエネルギーの発露」として、それを許容する空気が広がっていく。
権力側の一部にさえ、学生運動の若者たちを「左翼の国士」と見なす風潮があった。
しかし、内ゲバや武装のエスカレートで、市民の支持は徐々に失われていく。党派闘争が発生し、1970年以降は本格的な殺し合いに発展していったためだ。
1971年、中核派対革マル派は報復の連鎖から、法政大学で凄惨な内ゲバを繰り広げる。ここに革労協と革マル派の間での内ゲバも加わり、全国の大学で暴力の恐怖が蔓延した。
これら内ゲバや、赤軍派に代表される爆弾や銃による武装はエスカレートしていき、1972年には連合赤軍による12名のリンチ殺人事件が発覚する。
学生運動は急速にその支持を失っていった。左翼学生運動同様「民族派」学生運動も、次第に衰退していった。
5月13日 には三島由紀夫と東大全共闘が、東大駒場キャンパス900番教室で公開討論を行っている。
三島はこの討論会の後、彼らに失望の念を抱いている。全共闘の彼らが「結局、自己の死を賭してまで政治的スローガンを守りぬこうとしない」こと、「世慣れた口舌と甘えにつうずる挙措」にあり、三島が彼らの「限界」を見抜いてしまったためだ。
それはそのまま、全共闘の挫折と終焉を象徴していた。
『22才の別れ』の男と女が一緒に暮らし始め、別れるまでの1969年から1974年の時代背景に、学生を中心とした左翼運動の隆盛から衰退までの歴史が反映されていたとして、不思議はない。
たとえ彼らがノンポリ(nonpolitica・ノンポリティカル)であって政治運動にまるで関心が無かったとしても、その時代の空気感を共有していたのは間違いないところだ。
『22才の別れ』は一つの「時代」への別れを象る歌であり、そこには三島が看破した「世慣れた口舌と甘えにつうずる挙措」があるのだ。
(次回に続く)
イラスト Atelier hanami@はなのす