無意識なわたし
「自我」とは、ユング心理学において「自分で意識できる心の領域」と定義される。
この記事を書いている自分のことを「僕」とか「私」などと表記するとき、その「僕」は、「自我」のことを指している。
カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875年7月26日 - 1961年6月6日)は、スイスの精神科医・心理学者だ。
ユングは「集合的無意識」といった新しい概念を生み出し、“無意識”の領域を明らかにしている。
「人の心の働きは、意識のコントロールや認識を超えた“無意識”の働きが大きく影響する」というのだ。
このように、自分自身では意識できない部分が実は心の大半を占めているという考え方が、ユング心理学の肝になる。
この説に従えば、「自分のことは自分が一番よくわかっている」という概念が、その人の思い込みに過ぎないということになる。
ユング心理学によれば、心には「自我」と「自己」の2種類の中心があるとされる。
「自我」とは、意識(いま自覚している自分)の中心。一方の「自己」は、意識と無意識を合わせた心全体の中心を意味する。
図に見られるように、意識よりも無意識の領域のほうが、はるかに大きい。
「自我」が小さな自己充足的な円であるのに対して、「自己」は大きな円となるわけだ。
人は生まれたとき「僕」や「私」という概念を持ち合わせていない。幼年期から思春期、青年期と成長するにしたがい、徐々に外の世界に適応していくことでそのひと独自の「自我」が作られていく。
そのうち「自我」は、ある種の統一された価値体系によって組み上げあられ、個人として確立した「人格」を形成していくようになる。
具体的には、「オレは男だ」「私は○○社の社員です」「僕は人づきあいが苦手だ」などという観念として、認識されている。
こうした観念はすべて「自我」の中に含まれていて、人は「自我」という心の窓を通して、外界や無意識とやり取りをすることになる。
このとき「自己」は、「自我」が積極的に働きかけをしなければうまく機能しない。
「自我」が相応の強さを持たないまま「自己」を強調すれば、たいへん危険な事態を招くかもしれない。
「自我」が「自己」の力に圧倒され、自分を喪失してしまうか、あるいは肥大化して「自己」と同一化し、人生のすべてを知り尽くしたかのような、空虚な人格となってしまうのだ。
つまりユングは、意識(自分の知り得る意識)と知り得ない意識(無意識)のバランスが崩れた際に、精神疾患が生じると考えていた。
ユングによれば心の動きには、「思考」「感情」「感覚」「直観」の4つの機能があるとされている。
「思考」とは、物事に対し理に適った捉え方をする心の機能だ。
「それを証明する根拠は?」「この作品はいつ、どんな意図で作られた作品なんだろう?」などと、理屈で考えようとする。
「感情」とは、物事を好きか嫌いかで判断する心の機能。
「このカメラのシャッター音はいい」「嘘ばかり吐いていつも国民をダマす政治家の顔は見たくない」など、「思考」とは正反対の機能になる。
「感覚」とは、物事を「そのまま」捉える心の機能。
「この語り口のニュアンスは、○○にそっくりだ」「隠し味に入れた醤油のおかげで、今日のカレーは実にウマい」など、物事をあるがままに感じ取ることだ。
「直観」とは、物事を思いつきで判断する心の機能。
家族が夢枕に立ち、同時刻にその人が亡くなっていたという「虫の知らせ」。少子化と人口の老齢化を見越して業務内容を大幅に変更したあの会社には「先見の明」があるなど、ひらめきで物事を捉える心の動きになる。
僕たちは日頃なんとなく、好き・嫌いで付き合う人を選別したり、「〇〇がこうだから好き」などのこだわりで食事を選んだり、「今でなければ後悔する」といった“勘”だけで行動したりする。
ユングはこうした心の動きに注目し、その特徴に気づき、自身の治療や研究に役立てていった。
今回触れたかったユング思想に、「ペルソナ」がある。
ペルソナという言葉は、もともとは古典劇において役者が用いた仮面のことだ。ユングは人間の外的側面を、「ペルソナ」と呼んだ。
(次回に続く)
イラスト Atelier hanami@はなのす