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日本人による日本人のための憲法

聖徳太子31歳の夏、日本初の憲法である「十七条憲法」が制定される。
『日本書紀』には、同年4月3日の項に「皇太子みずかはじめて十七条憲法を作りたもう」と、太子自らが起草したことが記されている。

当時の日本は外国から仏教文化や儒教じゅきょう文化が渡来し、既存の神道しんとう(祖先崇拝)との文化摩擦や、氏族間の対立が激化する多難な時代だった。
そうした中にあって聖徳太子は、まず第一条で「和」の貴さを述べ、「和」による対立の融和・超克ちょうこくを説いた。

一に曰く、やわらぎを以て貴しと為し、さかふること無きを宗とせよ。
人皆たむら有り、またさとれる者は少なし。
或いは君父くんぷしたがわず、また隣里りんりに違う。
然れども、かみやわらしもむつびて、事をあげつらうにかなうときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

「和を大切にし、人といさかいをおこさぬようにせよ。
人にはそれぞれつきあいというものがあるが、この世で理想的な人格者などめったにいないものだ。
それゆえとかく君主や親の言うことに従わなかったり、身近の人々と仲たがいを起こしたりする。
しかし、上司と下僚かりょうがにこやかに仲むつまじく論じ合えれば、おのずから事は筋道にかない、どんな事でも成就じょうじゅするであろう」

「無益な対立をやめ、和をもって議論しあえば、物事の道理は互いに分かり合えるのではないか」と、太子は人々に語りかける。 そこには“和国建設”、すなわち「和」を基本として統一国家を建設しようとする、太子の理想と悲願が込められているのだ。

このとき、自身の気持ちや感情を抑えてひたすら我慢したり、相手の気持ちや意見を無視したりすることを「和」とは見做みなさない。
「和」は決して妥協や同調ではなく、理解しあって調和・協調するという考え方である。
争いを避けたいがための見せかけの「和」を大切にするのではなく、お互いが妥協せず、納得するまで話し合うことの大切さを表しているのだ。
ゆえに勝ち負けは存在せず、相手をやり込めることに価値を置く「論破」など、この憲法の精神からきわめて遠いところにある。偽善の入る込む余地もない。

この一条のみをもって、説かれているのは人として求められる最上級の倫理である。占領下にある国に、アメリカ人が即席でこしらえた「憲法」などとは、次元が違う。
その後も凄い条文は続くが、第五条など今の為政者が耳の穴かっぽじって傾聴すべきいましめである。

五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟をさだめよ。
それ百姓のうったえは、一日に千事あり。
一日すらなおしかるを、いわんやとしかさねてをや。
このごろうったえを治むる者、利を得るを常とし、まかないを見てはことわりもうすを聴く。
すなわち財のあるもののうったえは、石をもって水に投ぐるがごとし。乏しきのもののうったえは、水をもって石に投ぐるに似たり。
ここをもって、貧しき民は所由せんすべを知らず。臣道またここにかく。

「食におごることをやめ、財物への欲望を棄てて、訴訟を公明にさばけ。
百姓の訴えは一日に千件にも及ぼう。
一日でもそうなのだから、年がたてばなおさらのことだ。
近ごろ、訴訟を扱う者は私利を得るのをあたりまえと思い、賄賂を受けてからその申し立てを聞いているようだ。
財産のある者の訴えは石を水に投げ込むように必ず聞き届けられるが、貧乏人の訴えは水を石に投げかけるように、手ごたえもなくはねつけられてしまう。
これでは貧しい民はどうしてよいかわからず、臣としての役人のなすべき道も見失われることだろう」

東京大学をはじめとする国立大学の存在意義は、(聖徳太子がここで説いているような)あるべき姿の官吏かんりを育成する場だったはずだ。金儲け優先の政治家や経済人、個人主義の思想に毒された法の執行者を排出するために在るのではない。

「役人」という言葉を「政治家」や「官僚」「裁判官」などに置きかえてみると、これはまるで最近のわが国の世相を戒めているように思えてくる。
政治家や役人とはまず人格者であるべきであり、私心や嫉妬心を捨てて、公すなわち社会に奉仕するのが道である、政治の公正も裁判の公明正大も、それによって初めて実現されると、聖徳太子はいましめているのだ。

何か、今あるアレよりこっちの方が良くね?などと思ってしまう、人として求められる気高さがこの憲法にはある。

七に曰く、人おのおのよさし有り。
つかさどること宜しくみだれざるべし。
それ賢哲けんてつ、官に任ずるときは、むるこえすなわち起こり、奸者かんじゃ、官をたもつときは、禍乱すなわちしげし。
世に、生まれながら知るひと少なし。よくおもいてせいとなる。
事、大少となく、人を得て必ず治まる。時、急緩となく、賢にいておのずからゆたかなり。
これによりて、国家永久にして、社稷しゃしょく危うからず、故に、いにしえの聖王、官のために人を求む。人のために官を求めず。

「人にはそれぞれ、為すべき役割がある。
おのおの職掌しょくしょうを守り、権限を濫用しないようにせよ。
賢明な人が官にあれば政治をたたえる声がたちまちに起こるが、よこしまな心をもつ者が官にあれば政治の乱れがたちどころに頻発する。
世の中に、生まれながら物事をわきまえている人は稀少きしょうだ。よく思慮を働かせ、努力してこそ聖人となるのだ。
物事はどんな重大なことも些細なことも、適任者を得てこそなしとげられる。時の流れが速かろうと遅かろうと、賢明な人が携わったときおのずと解決がつく。
そうした経過のゆえに国家は永久に栄え、君主の地位も安泰となるのだ。だからいにしえの聖王は、官のために適当な人材を集めたのであり、自分のために官を設けるようなことをしなかったのだ」

聖徳太子は、世俗を捨てて解脱げだつを求める修行者の方向ではなく、社会組織や国家の中で、仏教の理想を実現する道を選んだ。
そこにおいては仏教にありがちな諦観ていかんなど微塵みじんもなく、あるのはひたすら理想に燃える最上の国家観だけである。
実践的仏教というのか、神道に根差したオリジナルの仏教とでも言えばいいのか。

日本の民がこの十七条の憲法を守れば、今からでも無敵の国家になること間違いなしである。憲法を改正するなら、聖徳太子の十七条でいこう!

イラスト Atelier hanami@はなのす


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