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創作をする心構えについて③ 標高2450mのストリートピアノ

 思い付きで始めた投稿でしたが、思ったよりも読んでいただけているみたいで、とても嬉しく思っています。

 今日書きたいのは、富山県の北アルプス、立山の室堂バスターミナルのストリートピアノを弾きに行ったこと。ちなみに、9月27~29日限定の激レアイベントです。もうひと月ほど前のことで恐縮ですが…。


カメラのシャッターを押すようにピアノを弾くこと

 遠回りですが、自分が普段どのようにピアノを弾いているか、というところから始めたいと思います。
 自分が弾くピアノは、ほとんどが即興で、たまに気に入ったフレーズの耳コピをするくらいです。ピアノは習ったことはなく、クラシックはほぼ弾けません。
 即興といっても、自分の頭の中にある好きなフレーズとか展開とかの引き出しから手探りで音を出してみて、あとはもう指が動くままに、偶然に身を任せるだけ。
 でも、ここ最近で美しい自然を求めて旅をして、“場所”が持つ特有の雰囲気が自分に音楽を与えてくれると気づきました。帰ってから家で再現しようとしてもうまくいかず、「あの日、あの瞬間だからこそ弾けたんだ」と。まさに自然の中に身をおいている高揚のような、それを表現できたと達成感を感じていました。これはその時にできた曲。

 帰ってからしばらくは、あの時に感じた「自然が持つ美しさ」って何だろうというのが引っ掛かっていて、関係ありそうな本を読み漁っていました。美学、風景学、風土学、現象学etc…。10冊は読んだかなぁ。
 でもなんだかしっくりこないなあと思ったまま、北アルプスでストリートピアノが設置されるらしいとの噂を聞きつけ、四の五の言わずにとりあえず行った。

「もし本番で緊張したら、お客さんをかぼちゃだと思いなさい」

 室堂平のまるで天界のような圧巻とした景色に驚きつつ、ひととおり散策を終え、念願のストリートピアノへ。ピアノはちょっとした広場の真ん中に置かれていて、周りを折り畳み椅子に座った登山客がたくさん囲っていました。
 私は恐る恐るそのピアノに座って弾き始めました。さっき見た圧巻の景色を思い浮かべながら。でも、屋外にあるピアノだからか、大きい音を出したいところで音が反響せず迫力があまり出ない。おかしいぞ、自分が表現したいことはもっと別なんだよな、と思っているうちに演奏はずるずるとよくわかんない感じになってしまった。いつもどおり弾けなくて申し訳ないな、と思うたびに、観客の人を置き去りにするように音が小さくなっていってしまう。
 後から考えると、「自分らしさ」みたいなものを突き詰めようとしすぎていて、お客さんはただのかぼちゃ、としか見てなかったように思います。

 そんな、絶賛泥沼中の私に、韓国人の女性が英語で何やら話しかけてきました。よくよく聞いてみると、「韓国の民謡を知ってる?」みたいなことを言ってる。
 「いや、知りません」と言ったら、「貸してみ」という感じで弾いてくれました。なんとなく、さっきまで自分が弾いていた曲と似ている気がする。
 自分の演奏で故郷の歌を思いだしてくれたんだなあ、と嬉しくなって、韓国の民謡を即興でアレンジしたらとても楽しかった。その女性もすごく喜んでいました。

↑映像白飛びしてます。すみません。

「自分らしくあろうとしない。むしろそれは自分を変えられるチャンスだ」

 言うなれば「かぼちゃが急に話しかけてきたぞ!?」という驚きと嬉しさのようなものを感じました。でも同時に、「自分らしさ」みたいなしがらみを一旦脇に置いて、「新しい自分」を発見できた気もしました。

 人はみな、変わり続けるものです。去年の自分とは考え方や価値観もまるっきり違うし、自分をとりまく環境も刻一刻と変わっていく。

 それは言い換えれば、なんでもない日常の中で、自分が「新しい自分」に変わる瞬間がある。それまでの「自分らしさ」という”しがらみ”、から自由になる瞬間。
 その瞬間を決して疎かにせず、かと言って力を入れ過ぎない。新しい扉を開くような感じ。そんな不思議な感覚を味わうことができました。


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