備忘録「無垢の歌: 大江健三郎と子供たちの物語」野崎歓
15 こうした比喩表現に生命感を宿らせる腕前において、大江は比類のない書き手である。
「説明文」とは、対象をよくとらえてその本質に触れるとき、ほとんど詩に近いような言葉の味わいを獲得するものだということを、大江の作品は随所で示している。
16 「説明文」は文学的なものでありうる。そして文学作品をかたちづくるのはそれ自体、明確な「論理」に支えられた「説明文」なのではないか。
18 チャイルドライクな文学
子供っぽさを「チャイルディッシュ」ととれば幼稚な、未成熟で大人げない、という非難になる。しかし「チャイルドライク」ととれば、無邪気で純朴、素直で可憐という肯定的評価になるはずだ。若くしてのデビューから、老齢に至るまで、一貫して「チャイルドライク」であり続け、子供の無垢への追憶と志向を保ち続けたところに、大江文学の素晴らしさを見出したいのである。
84 一方、鯨への熱烈な思いは、おそらくスコット・マクベイとの交流が刺激となっている。
海洋生物学者にして詩人でもあるマクベイは、一九六七年、ロジャー・ペインと共同で、 ザトウクジラが六オクターヴの音階をもつ「歌」を歌っているという研究成果を発表し、世界的反響を呼んだ。
「海の王者と陸の王者とがエールを交換しているような情景」との解説もありますが、象は鯨の「歌」を聞いているかのようです(象の表情と耳に注目!)。ゾウの発声音域は10オクターブ以上。
87 精霊としての幼児
五歳になった夏、それまでほとんど自発的に言葉を発することがなかった光は、北軽井沢の森を歩いていて突然、静かな声で「ヨタカです」と言った。翌日には「ツグミです」「オナガです」と次々に言い、「ホーホケキョ」と鳴く声には「ウグイスです」と言った。
光は鳥の声のレコードがとても好きで、大江は家で繰りかえし聞かせていた。そのアナウンサーの言葉に学んで、いつしか光は何十種類もの鳥の鳴き声を聴き分ける力を身につけていたのだ。
101 そこには大江による理論武装のもう一つの重要ポイント、道化=トリックスター論が関わっている。山口昌男やバフチンの著作から大江が得た大きな励ましは、社会において下位に位置づけられ周縁に置かれた存在にこそ、中心・上位にあるものに対してダイナミックな動きを巻き起こす力が備わっているという考え方だった。「中心指向性、単一化の傾向の文化を、根底から組みかえる構想」(「小説の方法」)を、大江はそこから育んだ。
(略)
ここで言われる「道化」とは、世界の意味をまるごと更新してしまうような力を秘めた存在という意味である。
134 かくれんぼとは「呪術的な遊び」だと述べたのは奥野健男だった。「それは他界、つまり死の世界への隠れ遊び、常世への迷路探究の遊びである」(『文学における原風景』)。
もちろん、普通のかくれんぼでは、鬼は隠れている仲間を難なく見つけ、遊びの時間はあっけなく終わりを迎える。だがもし遊びが終わらないとすれば、「五十日戦争」での迷路作戦が示すように、「永遠の子供」となるおそれがある。より伝統的な言い方をすれば、その子供は神隠しに遭うのだ。
136 神に隠される男児には何か「宗教的」とも「物狂い」ともいうべき「共通の特徴」が認められるはずだと述べている。
173 底流に押し流されまいとウグイたちは流れに抗して泳ぎ続けている。そのせいで、位置は変えずにその場に留まっているように見える。運動と停止の一致がささやかな奇跡のように実現している。大江作品に描かれた情景としても際立って美しい、瞬間と永遠が重なりあう一瞬だ。
217 「しかも詩のメッセージのいいところは、将来さらに深く読みとることができるようになる時、同じ詩がまさにその際の私に必要なメッセージであるはず、と信じられることじゃないでしょうか?」
225 大江家では光くんのあだ名が実際には「ブーちゃん」だったと知って、びっくりした記憶がある。なるほど、陰気なロバのイーヨーよりも、のんびりとしたプーさんのほうがおそらく光にはぴったりなはずだ。ではなぜ作中ではイーヨーなのか。それは「いいよ!」というポジティヴきわまる響きゆえの選択だったのではないかと想像する。
(略)その名前自体が、無垢な者への全面的な肯定を表していると言ってもいい。
とのバランスとしてのポジティヴきわまる響き
225 もちろん、無垢だけで話が終わるものではない。大江が愛読し続けたブレイクの詩集のタイトルは「無垢と経験の歌」である。大江作品の流れで言えば、「経験の歌」はノーベル文学賞受賞後に書かれた『取り替え子』以降の、作家・長江古義人の登場する一連の長篇に相当する。そこでは長江≒大江の旧作の読み直しが大きなテーマとなり、登場人物たちによって、作家のこれまでの仕事が痛烈な批判にさらされる。本書で触れた人物再登場や「再来」のモチーフが、さらに方法として意識化され、徹底されていく。過去の栄光にあぐらをかくどころか、作家人生を根本から反省しようとする諸作の取り組みは、わが身をさいなむような皮肉に満ち、味わいは苦い。それこそが年を経た小説家による経験の歌なのである。
イーヨーという言葉を書く(発する)ことが大江健三郎にとっての無垢の歌
→朝ドラ「舞いあがれ」のばんばの「オヨ~」にイーヨーに似たニュアンスを感じます