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世阿弥の対象

先日、静嘉堂文庫の「平安文学、いとをかし」を見に行った。「平治物語絵巻 信西巻」が出てた。

「平治物語絵巻 信西巻」静嘉堂文庫文庫  

信西さんは崇徳院を追いやった側。平治の乱では敗者になった。
絵巻の武士は生き生きしていて、世を動かす実力はもう武士側にあるのがわかる。

さて、崇徳院は、日本三大怨霊のひとり。
1156年の保元の乱で後白河院に敗れ島流しになった。
後生を願い、自筆で3年がかりで五部大蔵経を書写した。せめてこれを都近くに置いて欲しいと願ったが断られた。
無念の余り、舌先を食い切った血で經の奥に「日本国ノ大悪魔」になることを書き付け、生きながら天狗の姿になって祟りを引き起こした(「保元物語」1230年代)

薨じたあと、有名歌人西行がおまいりして3首和歌を詠んだ。
それで説話になり、江戸時代には秋成が『雨月物語』「白峰」を書いた。
その崇徳院はかなしく哀れ。

でもね、実物はそうじゃなかったらしい。
崇徳院と、同時代でおつきあいのあった人たちの和歌を辿ると、崇徳院はお付きの女房2人と寂しく暮らし、心細いまま、後生を願って、病んで死んだ。
ドアマット属性。

で、崇徳院が薨じて60年以上経った1230年代、保元物語ができた。
その頃は実に世情不安。
で、世情の不安の原因をハッキリさせたいとみんなが漠然と思っていた。
アレだ!ってみんな思ってたから。

だけど今の上つ方のお名前を出すのは憚られる。
そこで、歌舞伎の忠臣蔵で江戸時代の吉良上野介が、
鎌倉時代の高師直の名に置き換えられたように時代を遡って崇徳院に仮託しました。
仮託されたのは誰か?

後鳥羽院です。
1221年、承久の乱で負け、隠岐島に流されたまあ強烈な人。
生霊としても怨霊としても大活躍。

と、ここまでは山田雄司著の「怨霊とは何か」からざっくり 



で、後鳥羽院(60才)が亡くなる13日前に水瀬親成のために書き残した文章

我は法花経にみちひかれまいらせて、生死をはいかにもいてんする也。たゝし百千に一、この世の妄念にかゝはられて、魔縁ともなりたる事あらは、この世のため障り為す事あらんすらん

後鳥羽院置文案文の一部

なんか、もう、大変……な方でございます。
で、朱の手形押すのよ。それも両手。
で、この人が順徳院のお父さん

世阿弥を佐渡に流した足利義教も天災。後鳥羽院も天災。
上つ方が天災だと、火事も戦も地震も起こる
それは今も一緒。

で、『金島書』の「泉」で世阿弥は順徳院をシテの座に据えました。
だのに、世阿弥も、本当の対象の代わりに、前時代の人に仮託してたなら、
本当に成仏して欲しい無念を抱えた人は誰でしょう?

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