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丸山眞男著『日本の思想』第一章を読む(4)
國體について②
ここ(ポツダム宣言の受諾)で驚くことは、あのようなドタン場に臨んでも國體護持が支配層の最大の関心事だったという点よりもむしろ、彼等にとってそのように決定的な意味を持ち、また事実、あれほど効果的に国民統合の「原理」として作用してきた実体が究極的に何を意味するかについて、日本帝国の最高首脳部においてもついに一致した見解が得られず、「聖断」によって収拾されたということである。【…】権威と規範、主体的決断と非人格的「伝統」の拘束が未分化に結合し、二者択一を問われないところにまさに「家」・同族団あるいは「郷党社会」(伊藤博文)とリンクした天皇制イデオロギーの「抱擁性」と「無限定性」の秘密があった。
「國體」を特定の「学説」や「定義」で論理化することは、それをイデオロギー的に限定し相対化する意味を持つため避けられたと丸山は教える。
子供が、雑穀の入った米ばかりだとか、菓子がなかったと不平などを口にすると彼は父親としては、度をこした暴力を振るった。昔の温和な木口を知っている妻は人が変わった夫をただ茫然として眺めた。そんな時、彼は彼で、部屋に戻り、布団を頭からかむり呻き声をあげて泣いた。まぶたのなかには屍累々としたあの「死の街道」---うじ虫が鼻や口のあたりを這いまわっている、まだ生きている兵隊の姿が眼にうかんだ。かれはその苦しみをまったく無視してすべてを裁く日本の「民主主義」や「平和運動」を心の底から憎んだ。
木口はビルマ戦線から撤退した日本兵だ。ジャングルで戦友塚田と人肉を口にして飢えをしのぎ生きのびた。これは歴史的にも“天皇の国・天皇の民”の作戦そして皇軍の末路のことである。
(※)写真キャプションに資料あり
過激社会運動取締法案(1925年)が治安維持法及びその改正を経て、思想犯保護監察法(1936年)へと「進化」してゆく過程はまさに國體が、「思想」問題にたいして外部的行動の規制--市民的法治国家の法の本質--をこえて、精神的「機軸」としての無制限な内面的同質化の機能を露呈してゆく過程でもあった。
「教育勅語」(1890年)や「軍人勅諭」(1882年)は、雲のように無形である國體の外殻をより強固にしたことだろう。ひたすら天皇に帰一する国家観を形成した“民の認知”の中心は、どんな音をも響かせる空洞ではなかったか。
誰も責任をとらず、どこまで求めようと決着のつかないストーリー(社会)の中心に、現在は『自己責任』やら『私らしく』などという空っぽの(安っぽいポエムのような雰囲気だけの)言葉が響く。
(國體観念の強化と浸透という面に尽くされない、政治構造として、また社会体制としての天皇制が、近代日本の思想的「機軸」として日本の「西欧化」をになう役割がある、しかしながら)それならば、制度は西欧化したけれども、精神面では日本的な、あるいは「伝統的」な要素が残ったという風にいって(天皇制を)片付けられるだろうか。むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用の仕方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。
小説『深い河』に似た人を探すなら大津というさえない青年を選ぶだろう。
同級生がキャンパスライフを満喫する中、大学構内の教会でひとり神に跪(ひざまず)く彼は神父として生きることを望んでいる。
後にリヨンの神学校に身を置くが、神を“存在”ではなく“働き”と感じ、命あるものすべてにその“働き”があると考える大津は、汎神論的(異端)と教会に咎められる。善と悪は不可分で相容れないと修道会は彼を叱責するのだった。
ヨーロッパの考え方はあまりに明晰で論理的だと【…】東洋人のぼくには何かが見落とされているように思え、従いていけなかったのです。【…】それはぼくが彼らの偉大な構築力を理解できるだけ頭がよくなく、不勉強のためですけど、それ以上にぼくのなかの日本人的な感覚が、ヨーロッパの基督教に違和感を感じさせてしまったのです。
愚直で不器用な大津は、神学校を追われ、教会と距離をとりつつ、ガンジス河のほとりで、行き倒れたアウト・カーストを火葬場に背負って運ぶ生き方を選ぶのだった。
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太平洋戦争中の日本軍によるインド北東部の都市インパールへの進攻作戦。1942年にビルマに到達した日本軍はインパールへの進攻作戦を計画し、一度は成功の可能性が低いと判断され中止となったが、第15軍司令官・牟田口廉也陸軍中将は再度この計画を独断的に実行した。その目的は、援蒋ルートの遮断、およびイギリス植民地支配下のインド独立運動を支援するというものであった。インパール作戦には、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース指揮下のインド国民軍兵士6000名も参加した。しかし、補給路と制空権の欠如などから歴史的な惨敗を喫し、作戦参加兵力10万人のうち、戦死者3万名・戦傷病者4万名を出した。この失敗の責任を問われ、参加した3師団長全員が罷免されることとなった。
(国立公文書館アジア歴史資料センターより)
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『深い河』は彼の遺作となる。