
丸山眞男著『日本の思想』第一章を読む(5)
「ねえその神という言葉やめてくれない」と美津子が大津に言う。言われて気弱な彼は“神”を“玉ねぎ”と言いかえる。
ーーーーーーーー
「ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。玉ねぎという愛の河は、どんな醜い人間も、どんなよごれた人間も全て拒まず受け入れて流れます」
十章・大津の場合より
近世ヨーロッパにおいては、唯一絶対の神による世界秩序の計画的創造という思考様式が世俗化されて、自由な責任の主体としての絶対君主による形式的法体系や、合理的官僚制さらに統一的貨幣制度の創出への道を内面的に準備した。その論理的媒介をなしたのが、精神を物体から切り離し、コギトの原理に立って経験世界の認識主体(悟性)による構成を志したデカルトにほかならない。
丸山は天皇制が「機軸」として負った役割を「國體観念」の教化・滲透におよばず、政治機構や社会体制として、機構的側面があったと分析する。
そして、日本の近代化の根底にある認識論的構造からみて、明治憲法が大権中心主義や皇室自律主義をとりつつ元老・重臣など超憲法的存在の媒介によらないでは国家意思が一元化されないような体制がつくられ、決断主体(責任の帰属)を明確化することは避けられ、『もちつもたれつ』の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用し、統治の唯一の正統性の源泉である天皇の意思を推しはかると同時に、天皇への助言を通じ、その意思に具体的内容を与える輔弼(ほひつ)のメカニズムが、巨大な無責任への転落の可能性を内包させたという。
一方、ヨーロッパの近代国家形成が、権力(絶対君主)のロゴスの自覚(国家理性の問題)と、膨大な人間的エネルギーを教会的自然法の拘束から解き放つことでその基礎を成し、教会との闘争において“国家は自己の世俗的権力が「生の充溢」を支配すべきでない”という感覚をもった。丸山はそれを『国家のフィクションとしての制度の自覚』であり、同時にフィクションと生の現実との間の鋭い分離と緊張の自覚でもあったと指摘する。
この自覚はむしろヨーロッパ近代が完成し、もろもろの制度がオートマティックな運転を開始するにあたって、しだいにうすれ、そこに制度の物神化という「近代の危機」が胚胎するのであるが、それにもかかわらず、一方、絶対的な超越神の伝統と、他方、市民の自発的な結社=再結社の精神によって今日でもヨーロッパ的思考から全く失われていない。
近代国家の政治理論において、頂点の政策主体としての君主の役割が、底辺の主体的市民の役割へと旋回した後も、『フィクションとしての国家観』は“生の充溢と制度との間のギャップの感覚”として保持され続ける。
その感覚こそ比較的少数の人間におそろしく巨大な人間が服従するという「政治的社会の現実を一個の驚くべき現象と見る感覚」として市民社会の伝統になり、引き続き“権力の正当性の根拠”を問う源泉になりえたのだと丸山はいう。
では、日本の近代化はヨーロッパと比してどうだったか。
日本における統一国家の形成と資本の根源的蓄積の強行が、国際的圧力に急速に対処し「とつ国におとらぬ国」になすために驚くべき超速度で行われ、それがそのまま息きつく暇もない近代化---末端の行政村に至るまでの官僚制支配の貫徹と、軽工業及び巨大軍需工業を機軸とする産業革命の遂行---にひきつがれていったことはのべるまでもないが、その社会的秘密の一つは、自主的特権に依拠する封建的=身分的中間勢力の抵抗の脆(もろ)さであった。
その“脆さ”は日本の文明の中心にある“空洞性”ではないか。
それは日本的感覚の中心をなすところに“うつお(洞)”なるものがあり、それはすべてを受け入れるが、しかしそこには何も残さないという代物にちがいない。
この“うつお”なる中心が、場合によっては新しさを都合よく受け入れ、場合によっては何も蓄積せずこと足るような働きをし、それは脆くもあり、日本的感覚の陳腐で皮層なある精神性を顕現すると思う。
『深い河』で大津がキリスト教の信仰に借りものの違和感をぬぐいきれないのは、日本的な“うつお”なる中心がヨーロッパ的二元論を受けつけないからで、敢えて“虚”にキリストを祀ると決めれば、“神”への祈りは、大津が聞いたように無制限に響きわたるだろうし、神の働きは全存在に木霊(こだま)する。
そして中心に天皇を配し近代国家の円滑な再生産を目指す制度を構築するなら、國體が“雑居性の伝統”を自らの実体としたように、無責任な体制を創出し、無限に転落する可能性を胚胎する社会(機構)が出現する。
大きくなり、母を失いましたが、その時、母のぬくもりの源にあったのは、玉ねぎの一片だったと気がつきました。〔…〕この世の中心は愛で、玉ねぎは長い歴史の中でそれだけをぼくたち人間に示したのだと思っています。現代の世界のなかで、最も欠如しているのは愛であり、誰もが信じないのが愛であり、せせら笑われているのが愛であるから、このぼくぐらいはせめて玉ねぎのあとを愚直について行きたいのです。
第六章・河のほとりの町より
醜く威厳もなく孤独な大津は告白する。
そして彼はマニカルニカ・ガートで死を待つ人に寄り添い、行き倒れた者を十字架のように背負いキリストのまねごとをしている。
そんな彼の“行為の不完全さ”こそが人間の苦しみそのものにみえてしかたがないのだが…。
※宇多田ヒカルが遠藤周作の『深い河』から得た心象を歌にしています。