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聖徳太子(一)

 この日本古代の飛鳥時代を生きた偉人に関しては、以前にブログにも書いたので、今回はそちらの内容とは少し異なる観点から話をしてみたい。
 聖徳太子の政治家としての偉業は数あれど、憲法を制定した業績は非常に有名である。殆どの日本人は、さほど歴史好きではなくとも、十七条憲法が昔の日本の法律らしきことくらいなら知っている。しかもこの十七条憲法は、日本史における法の中でも、その影響力たるや相当なものだ。否、これはひょっとすると、むしろ法の影響そのものよりも、日本列島で暮らす人々の特質を的確に表して、そのまま明文化した内容が真理を突いているのかもしれない。つまり法律に明記された、主に国民を統治する支配層の倫理的な行動指針として掲げられている以上の意味が、そこにあるのだ。

 特にこの冒頭の第一条がそれを物語っている。

 和をもって尊しとなす。

 この言葉の後に、なぜ和が大切なのかが単純明快に説かれており、それは要約すると、助け合い協力することは、仲違いをし争うことよりも大切だということである。

 聖徳太子の十七条憲法といえば、一般的にこの第一条の文言を素直に連想する人が大半かもしれない。ただしその解釈は、古代の飛鳥時代以降の、中世や近世それに近現代を経た長い日本の歴史の中で、聖徳太子の真意とはかなりズレたものに変質してきたようにも思える。特に日本社会において、和の精神や和の心という言葉で定義されがちな、個よりも個が属する組織の秩序を重んじる倫理観や民族性は、本当のところ聖徳太子の思想信条とは異なるものであろう。

 聖徳太子が推古天皇の摂政として、十七条憲法を制定したのは、彼が三十代の頃のことだ。無論、政治家としてまだまだ枯れるような年齢ではない。そして先に述べた日本人の特質とは、個を無視したような集団主義ではなく、むしろ日本列島という天災の多い地域で生きる人々が、災厄の中で必然的に助け合う姿勢である。またそのような被災地の実態に向き合い、為政者の彼もまた被災者への共感力や想像力を働かせて、そこに身を置き体現することによって、和の概念を導きだしたのではないか。恐らく聖徳太子が日本史の枠を越えて、国家宗教としての仏教のシステムに疑問を感じ、内省的に深く仏教に帰依した動機もそこにあるように思える。十七条憲法には、仏教のみならず中国古来の儒教の影響も非常に濃いのだが、論語などで明記された社会の秩序や上下関係を正常に機能させる為の和の精神とは明らかに違う。

 つまり儒教の身分制を礎とした和ではないのだ。そうした礎を取っ払った上での、謂わば無条件の和であろう。地震や台風のような天災や、戦争のような人災において、被災者に無条件で寄り添い、思い遣り手を差し伸べる、そのような助け合いの和だといえる。またこの無条件の和の精神を為政者がもてるならば、まず国際平和の観点から、国同士が軍事的に衝突する戦争という愚策など選択できないはずだ。

 興味深いことに、この十七条憲法を聖徳太子が編纂していた時期、国内では推古地震という巨大地震が発生しており、国外では中国大陸の隋帝国が朝鮮半島の高句麗へ大規模な侵攻を続けていた。こうした国内外の情勢も、実は新しい憲法の制定の動機付けになっていたのではないか。つまり儒教や儒教で解釈された仏教が主導の法整備では、善政ではなく圧政に及ぶ危険性を聖徳太子は危惧していたようだ。

 十七条憲法を制定して以降の、聖徳太子の残りの人生は二十年ほどでその幕を下ろしている。その後半生で、彼は理想と現実の狭間で苦しみながらも、在野の仏教信者の為政者として社会福祉政策に心血を注いで取り組んだ。この辺りの事情は、ブログにも書かせて頂いた。

 世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり。

 これは聖徳太子の遺言に近い独白だが、今の日本の政治家に、この言葉を心の底から絞り出せる人物は、残念ながら見当たらない。今年の能登半島地震における政府や自治体の対応から判断する限り、それは一目瞭然であろう。要は弱い部分よりも強い全体を重視する、弱い個よりも個が属する強い組織が優先されてしまう体制に、恒常的な問題があったのではないか。

 21世紀に入ってから、極端な天災が増えており、被災した高齢者の多くが、長い人生の中でこんな目に遭うのは初めてだと悲嘆の声をあげている。こうした自業自得ではない形で、不幸のどん底に叩き落とされた人々は救われるべき弱者だ。また日本国憲法における基本的人権が保証されていない状態に陥ってもいる。為政者であれば、聖徳太子のように弱者救済を常に意識しておくべきであろう。弱者が犠牲になってしまうのは、弱者を助け合いの和から切り捨てていることなのだから。


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