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父親に子どものことを伝えられなかった

 のぞみ先生は新卒からF保育園で勤務している4年目の保育士。2歳児クラスの担任をしていた。
 2023年9月のある日、ダイチくんが園庭で転んで左手の小指をけがした。転んだ場所には遊具はなかったし、石もなかった。のぞみ先生はダイチくんが転ぶ瞬間を見ていた。他児に押されてもいない。普段と違う転び方もしていない。転んだときは泣いて左手の小指が痛いと訴えたので視診をし、冷やした。見る見るうちに腫れてきたので、受診が必要であると判断して、3件の整形外科に電話をしたが休診だった。そのうちに午前中の診療時間が終わる時刻になってしまった。同時に保護者にも連絡をして、状況を伝えた。
 ダイチくんは右利きなので普段通りに給食を食べた。受診先が見つかったのは15:10だった。ダイチくんは15:00のおやつを食べ始めていたので、「食べ終わったら病院に行こうね」と話し、のぞみ先生は食べ終わるのを見守っていた。
 その時、ダイチくんの父親が迎えに来た。とても腹を立てていて「骨折していたらどうするのか。のんきにしすぎていないか」と言い、ダイチくんを連れて帰った。父親が受診した結果、小指の第2関節あたりにひびが入っていた。小指にはめる形の固定をしたとのことだった。普段通りに過ごしてよいので明日も登園するとのことだった。

 翌朝ダイチくんと登園した父親は、事故報告書を見せてほしいと言った。のぞみ先生はダイチくんと受診したときに医師に伝えるために、転んだ時の状況はすぐに記入してあった。そこに父親から聞いた受診の結果と治療方針を加筆したものを父親に開示した。

 「書き直してください。この転び方でこんなケガにならないはず。見ていたのですか。保育士の人数はここに書いてある通りですか。転んだ時の状況を詳しく書き直して再度見せてください」

 のぞみ先生の事故報告書に承認印を押した園長の説明も聞かずに、父親は書き直して見せることを強く主張した。父親の追及は1か月間ほど続いた。
 父親は近くの国立大学の医学部附属病院の医師。循環器科。父親曰く、保育士の安全管理の甘さが職業柄、気になるそうだ。

 ダイチくんは体幹がゆるく、転んだ時に手が出ないこともあり、体幹を使う遊びを取り入れたり、遊んでいる周りの安全管理は転ぶことを予測して留意するといった配慮が指導計画には書かれており、実施されていた。
 
 すでに3歳になっているのに、父親とベビーカーで登園していた。
 「歩いたら時間がかかってしまいますか?」
 なるべく歩いたほうがダイチくんのためであることを、のぞみ先生はオブラートに包んで父親にも話していた。
 父親の保育士を見下したような話し方や、医師という職業をアピールする態度に、どうしても萎縮してしまって、ダイチくんの育て方について共有したいことを伝えきれないと悩んでいた。
 
 のぞみ先生は園長とともに、事故報告書の書き直しはしないことを父親に伝えた。母親は「うちの子は本当によく転ぶのでそういうケガをするのも仕方ないと思うし、私はいいんです。でも夫には言えない」と言い、結局、父親は納得しないままだった。

 のぞみ先生は体調を崩し、11月末日で退職した。
 
 職業人の前に子育てしている一人の親。職業人としてのその専門性は保育の専門性ではないし、子育てはむしろその人の成育や価値観を含めた市民性が表出されることが多い。大人の市民性がそのまま表出されてしまうと、保育士は本当にしんどくなる。子どもを受容することには頑張れても、保護者を受容することは難しいこともある。
 のぞみ先生は「もう保育士はしない。子どもとはかかわりたいけれど」と。あれから3か月経ったけれど、まだ薬も飲んでいるし、あんなこと言われたのは初めてだったし、珍しいケースかも知れないけれど、でも、もういいかな、と。
 保育士の離職理由の1つが、保護者との関係性の難しさ。また一人、保育を諦め、潜在保育士になってしまった。
 
 

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