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感情に手向ける、祝福としての観念

なにも間違ったことをしていない、と冷静な心地で理解していても、じっさいに動き出そうとすると重たく感じてしまうのは、これまでの経験や――それこそ魂や体に染みついた、自らを成すための辞書のせいなのだ。

わたしはさいきん、そのこれまで連綿と綴ってきた「〇〇とは〇〇である」の大規模な刷新をしている。その過程で、なんども重たいため息をついては、いっそ内臓が口から飛び出してしまうんじゃないかとひやひやしながら、これからを生きていくための心地よい観念を繋いで編んで最適化している。

大衆に向けて声高に伝えたいたぐいのものではなくて、わたしを快適に動かすための、誰にも届かなくてよろしい言葉を探す作業。繰り返していくと、忘れていた記憶のなかで、当時の匂いや温度をそのままに残されている「生きた傷」を見つける。涙も枯れた小さな子どもは、うつろな目をして今まさに自分の身に起こったことを受け入れようとしている。つらかったね、いたかったね、もう大丈夫だよ、といって笑顔を取り戻してあげるのが、無精37歳のわたしの仕事だが、うっかり貰い泣いてしまうこともある。その傷はわたしの中にもある。

若い頃に感情が分からなくなって、「悲しいとは」「嬉しいとは」「喜びとは」と、逐一グーグル検索をしていた。一般回答とわたしの感じるそれとには乖離があって。その溝を埋めようとしてインターネットの集合知を頼った。グーグル先生は書籍の辞書よりは幾分近くに感じたが、紙とは異なる「かたさ」があった。血の通った人間の感じる感情の多面性をみとめていなかったであろうわたしは、自らが今まさに感じ取っている物事をみとめてあげることができなかった――つまりそうして傷のまま蓋をして寝かせていたのだ。

善悪の外側に出る視点は、ときに倫理や法さえも逸することを許すけれど。自らが「ある感情」に焦点を当てたとき、名付け、観念を与えたとき、その言葉が自らを縛りあげるものであらば呪いになるし、豊かにするものならば祝いになる。わたしは残りの人生を豊かにするために、言葉を扱っていきたい。

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