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ジェンダーと現代詩

お久しぶりです。これから連休になるので、投稿しようと思っていました。
現在、最新作が6ページ出来たところです。作品の量が充分溜まるまで、また期間がかかります。
これから創っていく最新作について、ネットで公開するだけなのか、賞に応募するのか、作風を変えた方がいいのか、詩ではなく別の道に進んだ方がいいのか色々な道がある中で、思い当たることの一つがジェンダーでした。
以下は、古本屋で作品の方ではなく、あとがきの批評の部分の方に興味があって買った本からのものです。この本自体は古い時代のものですが、これと似たような内容の文章を他でも見かけたことがあります。

この詩集をよむと一人の善い日本女性の毎日のこまごました生活がそのまま詩になっています。そこに何のよそゆきの表現もありませんし、無理な文字も見られません。独りよがりな言ひまはしもなく、うるさい形容詞の羅列もなく、さっぱりしてゐて、茶の間で話し合ふやうな言葉と別に変わった言葉にも出会ひません。さういうただの言葉で毎日の出来事が、たとへば下駄の洗濯だの、御馳走の話だのが書かれてゐます。大抵の場合、さういう類の詩は人に平俗な、こせこせした感じを与へがちなものですが、此の詩集をよむと、その小さな生活のくまぐま(原文ママ)が不思議に平俗でなく、妙に美しく、大きく、ゆったりとしてゐて、何だかこちらまで楽しく、うれしくなります。「生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ」とわたくしの願った事がその通りに眼前に実現されてゐる事を感じます。詩が生活から飛び離れてゐるものではなく、生活そのものが即ち詩である事をこんなによく証拠立ててゐる詩集にあふことは珍しいと思ひます。そしていかにも女性独特の感じ方が女性独特のいい言葉であらはされてゐます。それが平気で書かれてゐるので、この素直な、透明な言葉が読む人を知らぬ間に引き入れてしまひます。かういふ詩を書く方のゐてくださるのはありがたいと思います。どんなに人の心を温め力づけてくれるか知れません。誰でも毎日為てゐる事、経験している事がこんなに詩であり得るのだといふ事に気がつけば、ほんとにさうだと思はない人はないでせう。さういふことは喜びです。
昭和十八年七月二十六日 高村光太郎
つつましい日本固有の母なる人の自然の声である。詩に無駄な工作をまじへないこの透明さは、詩作の修行からいってもかなり高い段階に居るものと見ねばならぬ。
この集には良人へのこまやかな思慕、愛児等に対する母としての熱情が多くうたはれてゐる。その至情が此のありのままであって、しかも出過ぎない言葉となって一種のかをりある詩を成してゐるのは好ましい。
昭和二十年三月 高村光太郎
彼女は純粋な詩人なので、どんな小さな出来ごとでもほとんど詩の形式を借りて書いている。
「上手な詩と、不朽な詩の間には、大きな違いがある」と、エマソンも喝破しているように、新しい形式を追い求め、感覚をもてあそんで得々としている小手先だけの詩と詩人は、ついに滅びるだろう。
巧妙なテクニックを駆使して、斬新な詩を書いてみせても、そのものが極端なエゴイストで、排他的で独善的な非人格者であったら、その詩は単なる言葉の魔術に終るであろう。
彼女の場合は、日常茶飯事がすでに詩であり、生活が夢になり、夢が芸術になり、芸術が現実になるといった調子で、正真正銘の詩人なのである。
純粋な詩に理屈がないと同じように、彼女自身の生活は自然で、彼女の詩作品にも理屈がない。
昭和三十五年一月 伊波南哲

矢野克子詩集 昭和詩体系 宝文館出版

詩の批評をいくつか読んでみて思ったのは、性別に限らず生活に根ざした日常とか身近で具体的なもの、そして特に女性の場合、一人一人のその人の個性とか自分らしさより女性らしさ、母親らしさ、主婦らしさが評価されているような印象を受けた、ということです。全部が全部そうではない、全てではないかもしれませんが、そうした傾向がありそうだと思いました。
そういう批評にあるものと私の性格とは正反対なので、自分は詩に向いてないのか、別の道に進んだ方が良かったのか、賞に応募しない方がいいのではないかと迷いました。しかも子供の頃からずっと根っからそんな性格なので変えるのが困難で骨が折れます。最初は詩に性格なんて別に関係ないだろうと思っていたら、審査員の批評コメントで「身近なことを」とか「具体的なことを」とあったり、女性詩についての詩論などを読んで、性格との関連を考えるようになりました。また、心理学や精神分析を独学でやっていたので、そうしたことに関心が湧きました。
しかし反面疑問に思いました。そもそもそういう身近で具体的で理屈がなく、生活に根ざしているのは私ではなく、うちの夫や父、義父の方でした。外見や表面は普通の男らしい人だけど、内面の性格は大衆的で庶民的で世俗的なせいか、女性のように保守的で現実主義的で生活や家族を重視したタイプです。私はそれと逆で外見や表面は女らしく見えるけど、内面はそうではなく、幻想的で抽象的で、家庭や家族というより政治歴史人文学など社会的、ものをよく考えるタイプです。
だからそういう先生方から見れば夫や父たちの方がほほえましい人なんだろうと思うんだけど、彼らは詩とは無縁の人で、全然読まないし創作もしないし、詩に理解のないような人達です。それと180度正反対の性格の私の方が詩に関心を持ち、詩集や詩誌を沢山借りたり購入したり、数多くのオリジナル作品を創作し、自分の詩集を編集していました。もし私が居なかったらわが家には一冊も詩の本などなかったと思います。特に現代詩や五行歌、シュルレアリスムなどはうちの親族や一族では唯一私一人だけです。実際、最初は現代詩なら自分のようなタイプの人間に向いているかもしれないと思って選んでて、後からどうも違っていたようだと思い知らされました。
それで例えば審査や評価の基準を女性らしさより自分らしさ、多様な個性を認めるよう訴えるとか、ペンネームを現在の女性名から性別不詳のものに変えるとか、そんなことを考えたりしました。
政治的主張の中にジェンダーフリーというのがありますが、私は外に出て働くことが別に好きではなく、金や生活の為に仕方なくやっていると思っていたので、最初はずっと支持していませんでした。しかしよく考えてみると仕事以外の別のことで、自分らしさより女性らしさにされて困ること、不快なものもあると分かりました。
もう一つ、女性独特とかジェンダーの問題で思い当たるのが娘達が少年漫画をよく見ることです。
長女次女の20代の二人の娘がいます。
小さい頃はプリキュア、おジャ魔女どれみ、東京ミュウミュウなど女児向けの漫画を見ていたのに、中高生くらいから段々少年漫画に変わっていきました。男兄弟もなく、主人がアニオタでもないのに、そういうアニメが大好きで、家の中がスポーツものやバトル系の少年漫画で溢れています。私自身も子供時代、少年漫画をよく見ていた時期はあるけど、高校生くらいからTVや漫画をあまり見なくなり、活字ばかりの本の方に熱中するようになりました。

銀魂、ワンピース、呪術廻戦、弱虫ペダル、黒バス、ヒロアカ、進撃の巨人、ハイキュー、鬼滅の刃、ブリーチ、スラムダンク、東リベ、ゴ-ルデンカムイ、ブルーロックなどなど。

それがうちの子らだけでなく、全国的に多くの女性がそういう少年漫画を見たり読んだりし、それを題材にした2.5次元舞台、ミュージカル、映画などに多くの女性達が押し寄せている。女子同士でその少年漫画の話が通じている。その中のイケメンキャラが狙いなのか、ファン層を見てももう男も女も関係ないほどです。
またその中で鬼滅の刃の吾峠呼世晴など男性名の女性が少年漫画の作者だとか、ワンピースのルフィの声など女性声優が男役だったりすることなども知りました。それで大人気で成功している。
詩の世界の方も「女性でなければ書けない詩」ではなく、性差にこだわらないところもあっていいのではないかと思いました。

最終的な決断としては、自分を貫いて今まで通りの作風で創作し続けたいと思っています。作風も部分的に少し修正するくらいならいいけど、原型をとどめないほどまるっきり変えられたりすると、もう自分が自分ではない、これまでの私の人生は何だったのか、そして第一骨が折れるほど難しくてできない、大切な大切な愛する作品をねじ曲げたくない。
ただ現在の女性名だと女性らしさという基準で評価されそうなので、ペンネームを変えるべきかと考えているところです。










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