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自炊による選択のパラドックスからの逸出

空腹時コンビニに寄ってもなにも買えずに帰ることがあると話すと共感してくれた友人がおり、”選択のパラドックス”という言葉を知った。わたしたちは一日に何千回と選択を迫られており、その選択がわたしたちを不幸にしているというものだ。選択回数を減らすことにより幸福になる、ミニマリストの考え方のひとつ、と簡単すぎるくらいにまとめるとこんなものだ。

わたしの食生活でこの選択のパラドックスが生じていたので考察してみた。

食生活における選択のパラドックス

わたしは食に関して疎い。休みの日に家で過ごすと、水を飲んで終わる日もあったくらいに。もちろん、美味しいものを美味しいと食べることはできる。美味しそうなものの写真を見るとうらやましくも思う。でも食べに行こう!という欲に直結しない。食に関する欲がおそらく人より少ないようだ。美味しい生ビールが飲めればあとはなんでもいいとさえ思っていた。(美味しいところとそうじゃないところがある)そういうわけで、美味しいものを食べに行こうという誘いには、二つ返事でついていく。与えられた美味しいものは美味しく食べることができるのに自ら選択ができないのだ。

食欲がない、というわけではない。仕事をしているともちろんお腹が空く。でもおなかがすいている帰り道、コンビニに寄ってなにか食べるものを、と考えると何が欲しいのかわからなくなり、長時間ごはんを眺め、退散する。なにも買えないのだ。ファミリーレストランに行っても居酒屋さんに行っても同じことが生じる。メニューの種類が多すぎて選択できないのだ。ファミリーレストランも居酒屋も、なんでも食べれるという都合の良さから行くことも多く、”刺身が食べたい””焼肉が食べたい”だから行っているわけではない。だから、選択ができないので、相手と同じものをひとまず注文しておくこともよくある。こっちのほうがいいかな、あれのほうがいいかなと悩むことは、もはやしない。選べないことがわかっているから、選ぶことさえ放棄したときもあった。

まさに選択のパラドックス、無力感が生じて不幸になっている一例だ。


自炊による選択のパラドックスからの逸出

わたしは3年ほど前から一人で暮らしている。いままでは誰かと一緒に暮らしていたので食べ物を選ばずに生きてこられたのだ。家族と暮らしていれば、家族が作ったものを食べればいい。彼氏と住んでいれば、彼氏が食べたいものを一緒に食べればいい。思い返すと25年程、一切食に関しては選択をしてこなかった。急にひとりで生活することになり、はじめて選択しなければならない状況になった。もちろん選択ができないので一人暮らしした一年間は無残なものだった。飲みに行くことも多く、自炊はほぼしなかった。

一人暮らしを一年半ほどして、肩こりや腰痛やむくみひどく、体重も増えていた。それを友人に相談したことが食生活を見直すきっかけになる。食べたものでわたしの身体はかたち作られているということを丁寧に教えてくれたのだ。わたしの食生活を思い起こすと、食べたもので…?と目を逸らしたくなるような内容だった。そこから改善は猛スピードに行った。米をやめて玄米にしたし、野菜中心に食べる生活になり、ひとまずサプリメントで栄養をとることを始めた。さいわい、親から離れて暮らしていたことが長かったため、自炊スキルはそこそこにあった。自炊だと家にある食材から作るものを考えるので、あまり悩まずにも済んだ。スーパーでは安い野菜を軸にし、選択して、購入するようにしていたので、”買えない”ということはなかった。そうして一年ほど過ごしているうちに体調がよくなり、眠くて仕事にならないことや、すぐに風邪をひくこともなくなった。体型ももとに戻った。筋トレも運動もせずに体重が戻っていた。(肩こり治らないし筋トレもしなくちゃだめ)料理も生活の一部になり、ストレス発散方法のひとつになっているくらいだ。


それでもいまも食に関しては疎いままだ。よくある「何食べたい?」には答えることはできない。でもこのコロナ禍で仕事もなくなり、家で過ごすことになったので食べることくらいしか楽しみがない。普段わたしは一日のほとんどを職場で過ごすので、家で過ごす時間に慣れていない。なにかしていないと落ち着かないので料理することが時間つぶしになり、今まで以上に楽しくなっている。家にある料理本のメニューを端から端まで作ってやる!くらいのいきおいだ。作ることはたのしめているみたいだ。食べることがたのしいと思えるにはまだ程遠いが、生きるためにそれなりの気遣いは身についたし、自炊することにより選択のパラドックスに陥らなくてよいので、すこしの不幸から逃れられているのかもしれない。

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