小説 #03 stray sheep
作家FH(フェイ・フュー)が、僕を雇う理由を話し始めた。
「・・・自伝を書こうとしているの。途中まではうまくいっていたのに。だけどもどうしても書けない。昔のことを思い出せない。こんなことは一度もなかったのに。昔もらった手紙や、自分の書いた日記を読み返しても、自分のこととは思えない。まるで記憶の一部分が誰かにそっくり盗まれてしまったかのよう。何かがおかしい」
FHは時折り紅茶をすすりながら、そこまでを一息に語った。
彼女の鷹揚な物腰とどこか矛盾するような気配の、独善的というか、早とちりというか、どう言語化するのがぴったりだかわからないが、何かしら急いたものを僕は彼女の言葉に感じとった。
だが、もちろん僕は黙ってうなずき、続きを待つ。
「卦を立ててみると「陽に当たってみよ」と出た。それであなたに頼んでいるの。初めにも申し上げた通り、あなたは腕のいいライターだと聞いていたから」
僕の疑念はさらに濃くなった。それで、僕はFHにたずねた。
「今までにも書けなくて困ったことはあっても、乗り越えてきたのでしょう、どうして今回に限って他人に頼ろうと思ったのです?ゴーストライターに自分の自伝を書いてもらうのは喜ばしいことではないでしょう?あなたのようなベテランの作家であれば、なおのこと」
FHはしばらく黙っていた。
「何か危機的に記憶が壊れているような気がするの。私はstray sheepになってしまった。自分ひとりの力では回復できそうにない・・・」
"stray sheep"?何か、神学的なモチーフだったかな・・・。神学。狂信。
「それでは、僕は何をすればいいのでしょう?」
「実は、わたしの記憶はあるところにストレージしてある。だからそこを調べてきてほしいの」
「どうしてご自分でやらないのですか?」と僕は驚いた。
「自分で自分の脳をのぞきこむのは、回路をショートさせるようなものよ。構造的に無理だわ」
・・・やはり、FHの記憶のデータに、大きな欠損があったのだ。アルジズの予測は当たっていた。
それにしても、「破損したデータの復旧」とは、まるでエンジニアが手帳に書き込むタスクの文言のようだ。僕はエンジニアではない。僕の仕事は作家から話を聞いて、相手の代わりに影となって本を書くことだ。
・・・何だろう、この妙な感覚は。FHではないが、何かがおかしい。なぜ、アルジズもFHも、僕が1㎜も知識を持っていないのを承知の上で、「記憶の回復」などどいうタスクを任せるのだ?それに僕は精神科医でもないのだし・・・。
突然、窓をばちばちと派手に鳴らして雨が降ってきた。雷も鳴り出した。僕とFHは窓の外へ目を向けた。
「夕立三日、といいますものね」FHは立ち上がって外を眺める。「庭師がもう片づけを済ませていたらよいのだけれど。剪定鋏が危ないわ・・・」
雷が激しく鳴った。
ソルは子どもの頃から本を読むのが好きだった。長じては小説を書く人になろうと思った。ところがいざ、パソコンに向かうと、何を書けばいいのかわからないのだった。
そこでソルは、小説の書き方を指南した本をたくさん読んだ。英語が読めたので、英語で書かれた本も随分読んだ。英語で書かれた本はロジカルで、役に立ちそうに思えた。
そうしているうちに、小説を書くというのは、自分がゼロから何かを引っ張り出す営為だ、とソルにも分かってきた。しかし、傷つくことを恐れるソルには、引っ張り出してきたものが下らなく、猥雑で、迂遠で衒学的な魑魅魍魎であることに耐えれそうになかった。もちろん、本当はそこで踏ん張らなければならないわけだが。
一方で、ソルはどうしたことか、他の人の代わりに文章を書くことは、バリバリできた。代筆である。他人のことを書く時はリラックスしていた。
自分の名前が冠されないとなると、ソルは文字通り別人となり、自分由来のであれば目を逸らしてしまうであろうグロテスクな魑魅魍魎を、微に入り細を穿って描出しきってしまうのだ。その別人となったソルはどこか神がかってさえいる。
こうして、ソルは出版業界の片隅に居場所を見つけて、作家としてではないが、繁盛しているのだった。
ソルのこの不思議な能力について考えてみよう。彼は、どうしてだか、相手の武装というか、相手の取り澄ました見栄やブロックを解くことができるようだ。そのおかげで、本当に書かれなければならないことを上手に聞き出せる。
もちろん多かれ少なかれ、ゴーストライターたちはその種の能力に長けているはずである。しかし、ソルはどこか違っているようだ。自分自身に対してはあれほどに臆病なのに、影という役割を得るや、相手と自分を巻き込んで、まるで一つの自然を創造することができる。
ソルへ仕事を回してくるエージェントのアルジズは、ソルの能力を見抜いている。だから、行き詰った作家のカウンセラーのような形でソルに担当させるのだ。
ソルが送り込まれる作家は、語るべき物語がうまく出てこなくなっている。そこで、まずソルは作家に質問する。作家が答えたことをメモすることもあれば、ただじっと聞いていることもある。そしてちょっと考えてからまた別の新しい質問をする。途中まで書かれた原稿があれば、それについて作家と一緒に見ていく。
建築途中の家を見学させてもらうようにして、その作家の外面と内面を巡っているうちに、ソルには自然と質問が思い浮かぶ。そして作家の答えを待ち、耳を傾ける。その後はもう、たいていの場合、作家との面談をすることはない。ソルはただ途中まで書かれた物語を引継ぎ、それを書き終える。
出来上がった原稿を読んで、作家は驚く。
こういう風に書きたかったんですよ、と。こういうことを言いたかったんですよ、と。
そして作家はさらなる驚きを口にする。
あなたに語らなかったことも、あなたはうまく掬い上げてくれている。わたしにもわからなかったことを、あなたはどうやって知ったのですか?
それらの質問をされるたびに、ソルは困る。どうやっているのか、ソルにもよくわからないからだ。
「先生のお話をうかがって、思い浮かんだことを書いただけです」とだけ答える。
実質、本の大部分を書いたのはゴーストであるソルだが、作家本人は、まるですべてが自分の語った言葉であるように思う。影の助けを借りたとは思えない。ソルには安くはない額の報酬が支払われ、一方、作家はその作品を書き上げた満足感を得る。
今回も、ソルがうまくフェイ・フューの書きたいことを掬い上げてくれるとよいのだが・・・。
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