小説 #26 壺井のランチ・セッション。
僕は街中の弁当屋へ向かった。昼飯を調達するためだ。
店へ入ると、ちょうどレジのところにすらっとした男がいて、「11時にタンドリーチキン弁当のツボイです」と奥へ声を掛けていた。
壺井だった。
「壺井さん」
彼はすぐに僕を思い出したようで、あぁ、ソル君か、こんにちは、と言った。
僕らは弁当を受け取ると外へ出た。
「僕はこれから仕事場にもどるけど、よかったら一緒に食べない?」壺井がそう言った。
「男二人でほか弁のランチってのもしょぼいけど。もしよければ」といってにっこり笑う。
あぁ、そうだった。この男はこのふくよかに隆起した両の涙袋で、相手の警戒をみごとに解くんだった。
「いいですよ」僕は答える。
「覚えてると思うけど、仕事場はあの中華料理屋の奥なんだ。もっとも、僕はそこで飯を食うことはないけどね。ひょいと払える値段じゃないから」
僕らは弁当の包みを抱えたまま、件の中華料理屋のロビーを抜け、奥へ向かう。あの時の坊主頭のフロアマネジャーが今日もいて、壺井に頷いて見せる。
壺井は紫檀のドアの鍵を開けると、僕を通した。
「ここは間借りしているんだ。」壺井は包みをテーブルへ置きながら言う。
「曾祖父が大陸から引き揚げてきて、戦後ここで骨董商をやったり、人を雇って料理屋をしたり。屋敷が広いから、いつも誰かが間借りしているんだ。廊下の向こうは漢方薬の問屋だよ」
「それで、いつも香りがするんですね」
「だいじょうぶかな?苦手じゃなければいいけど」
「平気です。ただ、ちょっと眠い感じがしてきますね」僕は正直な印象を言ってみる。
「幾ばくかの催眠効果はあると思う。それについてはまた追って話そう」
僕らは弁当を食べた。
壺井が冷えた紅茶を淹れてくれた。濃く淹れた紅茶を、じゅうぶん氷を入れたグラスに静かに注ぐ。ぱきり、と氷が割れる。
こんな風に、目の前で誰かに冷たい飲み物を作ってもらうのは、おもしろいというか、興味深い。バーとかでも、バーテンダーの迷いのない手つきを眺めるのがすきだ。
「ありがとうございます」僕はそういって、いただく。
「おいしいです。僕が作るのより、ずっとおいしいです」
「ありがとう。おいしいって言われるのはうれしいね。一人でいると誰もそう言ってくれないから」
「コツがあるとすれば、ゆっくり淹れることだよ。ばたばたするといけない。たぶん。それくらいだよ、秘訣は」壺井はにっこりする。
壺井は買ってきた弁当を食べる時でさえ、鷹揚に見える。どういう来歴の人物なんだろう?興味深い。
「あの、壺井さん、これをお返ししようと思っていたんです」僕は白い封筒に入ったヴィークル社のディスクを黒のナイロンリュックから取り出す。「今、思い出したように言うのも変かもしれませんが」
壺井が受け取った白い封筒は、弁当容器とお茶のグラスに混じって、古い紫檀のテーブルの上に置かれた。まるでバロック美術のような収まり具合だった。
「僕はフェイの記憶をここへ抜き取ったわけではないんだよ」壺井は封筒を持ち上げ、角を指でなぞりながら言う。
「だから、彼女はいつでもすべてを思い出すことができるはずなんだ」
「だけど彼女は僕に、そのアーカイヴの記憶を見てくるよう、依頼したんです。それが僕の仕事でした。僕が見たのは・・・。いろいろなイメージ。音の断片、匂い、誰かの声。ちゃんとした一場面。幾何学的な光と色のうねり・・・。キューブリックの映画のようでした」
「でも、どれだけダイヴを続けても、僕はわからないんです。あれがフェイの記憶だったのか。だから今回の雇い主にも、どう報告していいかわからなくて・・・」僕はついに本当に正直なところを吐露してしまう。
「僕自身は、ここで〈抜き取り〉をしたクライアントたちの記憶を観ることはないんだ。今までに一度もない」
壺井はそこで言葉を切り、弁当の容器を下げると、また新しく紅茶を淹れる。僕は彼のしなやかな身振りを静かに見ている。
「だけどね、思うんだけどね。奥の部屋にある、あのキャビネットの並ぶアーカイヴね。僕がフェイ・フューのディスクを取り出し、フェイに渡し、それから最後に君へそれが手渡されたよね」壺井は奥の部屋と言う時に、さっと軽く手をそちらへ向けた。
僕はうなずく。
「あれら幾多のディスクに収められている情報というのは、じつのところ、究極的には同質なのじゃないだろうか・・・?フェイのであっても、X氏のであっても」
僕らはしばらく黙り込む。どういうことだろう。
「もうひとつ、じつのところを明かすと・・・。僕のクライアントの記憶野へ第三者がダイヴしたのは、君が初めてだよ」
壺井の緩急をつけた饒舌な語りに、僕はかるくぼんやりしてくる。
「しかし、フェイを巡る君の介入は、善き方向へ働いたんだと思う」
「先だってフェイにお目にかかった時は・・・、何というか、新しい気持ちになっておられるようでした」
「君も、新しくなっているよ、おそらくは。何かが変わっているはずだよ。善き方向へね・・・」壺井はそう言ってにっこりする。
彼のふくよかな微笑みは無尽蔵に湧き出てくる。彼と会う人すべてがこの微笑みに浴することができたらいいが・・・と奇矯な考えがよぎる。奇矯だよな?
「さて、もうじきクライアントを迎えなくてはならない」壺井は立ち上がる。
「ここへ来た人はみんな、帰る際には、こっちからと決まっているんだ」壺井は僕を戸口へ案内する。帰りはもう中華料理屋のロビーを通らない。
「君も何か小説を書くんだろう?」壺井が外で、目をまぶしそうにしながら言った。
「僕は・・・。ゴーストライターなんです」僕は子どものように口ごもる。
壺井はちょっとのあいだ、僕を見つめる。
「遠からぬうちに、影ではなくなるよ。予言しておく」
そして壺井は僕の腕にさっと触れると、ゆたかな笑顔を見せ、中へ戻っていった。
一体、どういうことだろう。
むむむ。僕は彼のランチタイムを使ってセッションをしてもらったようなものだな・・・。
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