小説 #5-2 フェイ・フューが記憶をヴィークル社に保管する理由。
・・・フェイ・フュー(FH)がいつものように、ノートにペンを走らせている。時刻は朝の4時半。彼女は小説を書くようになって以来ずっと、早朝に起きて執筆するという生活を禅僧の修行のごとく維持している。朝4時に起きるとまずコーヒーを淹れ、机に向かい、思い浮かんだことをノートに書く。
書いたものは読み返さない。彼女はこの朝のノートのことを"compost/ コンポスト"と呼んでいる。そのようにして書き出すことで、野菜くずやムニエルの端っこがプラスチックのコンポストの中で分解され、時間とともに発酵していくように、彼女の思考も小さく分解され、あるいは何かとつながり、次第に醸成されていく。むくりと熱を発しながら・・・。
私たち作家は、もはや記憶を外部化している。
まるで日記をつけるためのノートを買い足し、仕事部屋のキャビネットを買い足すようにして。
もうずいぶん多くの作家が人知れずアーカイヴ屋を訪れていると聞いた。
写真や日記を取っておけば、それがライフログとして私を保証してくれる。かつての私はそう思っていた。そういう目に見える記憶を元手に、私たちは小説を書くことができる。これまでもそうやって幾多のアイディアを得てきたのだから。
しかし、それら物理的な記録は、決して十分ではないことに気づいた。どんなに写真を撮り、日記を書いても、多くの物事は漏れていく。
なにしろ、写真には私の感情も、体感も、記述されていないのだから。日記にしても、私が書きつけた言葉はしばしば嘘をついている。
あの時の、あの人物、この人物との邂逅。私は名付けようもない体感に襲われたはずだ。しかし、たとえ何かの記録がそこで成されていたとしても、それは私のあのリアルを少しも物語らないのだ・・・。
私は何の保証も手にしていない。作家であるわたしにとっては、身悶えするほど悔しいことだった。
しかし、テクノロジーによって私の記憶が十全に購われるとなれば・・・。私はもう70を越しているけれど、テックサヴィな若い人たちに倣ってみるのは、すこしもやぶさかでない。
初めてわたしが壺井のところで記憶を預けた時のことをよく覚えている。ヴィークル社だなんて、しゃれた名前だけど、何のことはない、あれは壺井が一人でやっている写真館のようなものだった。
当時ひっそりと、でも確実に知られ始めた作家向けのアーカイヴ業者の、秘密裡に手に入れたリストのページを私は繰っていた。"A"から昇順に並んだ名前の、"V"のセクションで指が止まった。
特に意味はなかったと思う。あるいは、トーマス・ピンチョンの『V.』を連想したのかもしれない。
"V"で始まる名前はそれだけだった。Vehicle, The.
ヴィークル。私は何かに乗って、どこかへ行きたかったのかもしれない。
どこかへ行く?荷物を預けて?私はなにを望んでいたのだろう?今私がこうして逡巡していることは、どこの記憶へストレージされるのだっけ・・・?デバイスに?SIMカードに?それともどこか遠くのシリコンウェハーに?
ともかく、わたしはチャイナタウンにある壺井のオフィスを訪れた。後にゴーストライターとして雇ったソルを伴って、そこを訪れた際には、ヴィークル社へ記憶をアーカイヴしておいたことがペイオフすることになるわけだけど・・・。