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ボックス住宅、赤いロードスター、そしてハルヒ。

黄砂がすごい。遠い山の稜線はすっかり霞んでいる。
映画のようだ。

じゃあ、それはどんな映画になる?

「The Yellow Sand」とかってタイトルで。黄砂が脅威だから、人々が逃げ始めるっていうんじゃ、あんまおもしろくないので、そうだな~、パニック映画じゃなく、ともかく、しんしんと黄砂が降りしきる。そういう土地を舞台にする。

「しんしん」という言葉は響きがきれいだと思いませんか? コトバンクによると、「奥深く静寂なさま。ひっそりと静まりかえっているさま」らしい。へぇ、静かなんだ。

黄砂が降っていて、静か。人々はもう黄砂を受け入れていて、ことさらに騒いだりしない。そんな街があるとして・・・・・・。

何か物語になりそうですね。僕は、靴とか服に砂が入るのが苦手で、海水浴とかもできることなら避けたいたちです。アラビア半島だったか、アフリカだったかのどこかでは、砂漠化がものすごくて、街が日に日に砂に浸食されて飲みこまれて、人々はもう家を棄てて逃げなくてはならない。もし夢に出てきたら、僕はまちがいなく助けを求めて大声で叫ぶだろう。

ところで最近、ベージュや黒や白の四角くてモダンな住宅、キューブ住宅が近所にたくさん建設され、あっというまに売れて人が住んでいる。

キューブ住宅の窓はどれも最小限の大きさで、だからもちろん、雨戸などは付いていない。縦長い銃眼のように、壁面のあちこちに、わざと? ランダムに配してあるようにも見える。それにキューブ住宅は、垂直の線が立ち並んでいる。垂直な線の連続はなぜだかモダンな感じがする。どうしてだろう? いずれにしても、キューブ住宅には余計な線がないように見える。

僕はいま、そういうキューブ住宅群がかたまって開発されている界隈にあるドラッグストアに車を止めている。キューブ住宅はこれからも繁殖していくのだろうか? それまであったものを飲み込んでいく砂のようにして。

赤いロードスターがしゅうっと過ぎて行った。運転していたのはラガーシャツを着たおじさん。天気がいいしね。でもさ、今日はすんごい黄砂の日だよ、幌をあげてて、だいじょうぶかな?

BMWのガブリオレとかが幌をあげて走っているのを見かけると、僕はいつも目で追っている。かっけ~!って。効率とはとことん無縁の何かをたっぷりと余らせながら、暮らしてる感じ。そういう自由なイメージ。剰余の車。

剰余ってコトバ、すきだな。

三浦俊彦の『エンドレスエイトの驚愕』と、デイヴィッド・ルイスの『世界の複数性について』が届いた。車にも持ってきた。

僕はエンドレスエイトについては全く何も知らなかった。ハルヒについては、『動物化するポストモダン』で知ってて、知ってるといっても作品そのものは読んだり観たりしたことないんですが、ゼロ年代のオタク文脈でよく引き合いに出されるな~、くらいの認識だったんですよ。

で、僕じしんは表象文化なディシプリンに親しんでいるので、作品を読んでいる人の外側●●と結びつける論考が好みで、楽しく読むんですが、三浦のアプローチは違っていて、社会と結びつける社会定位ではなくって、テクスト定位というものなんだそうです。ちょっとまだ五分の一ほど読んだだけなんですが、え~! そういう解釈がありなんですか! と叫びたい。

というのも、僕は自分の書くものが、社会と結びついている気がぜんぜんしないから。僕の小説の小説世界に住む人たちは、どうも自己充足しがちなところがある。それじゃいかんだろ? と僕は危惧きぐしていた。人間たるもの、セカイとつながらなきゃ、だめじゃないのか? と。だから未熟でナイーブすぎる彼ら登場人物を、もっと試練に遭わせないと。そう思っていたんです。

でも、そうやって試練を乗り越えるという型に収まってしまうのも、何か違うしな~とも。

とにかく、三浦本にたぶん、助けられることになりそうな予感。

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