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The catcher on the riverside 5
(約2920文字)
チアキが来たのは11時を少し過ぎた頃だったと覚えてる。その店で、もう何年もの間、誰かにとっての約束の時間を刻んでいるかのような掛け時計の針が、11時を指すまでずっと眺めていたから。
カランと控えめなドアカウベルの音と共に、チアキは店の中を伺うように入ってきた。淡いピンクの落ち着いた無地のワンピースは見覚えがあり、彼女が雑踏の中にいたとしても僕には見分けられたはずだった。広くもない店内を見渡すチアキへ僕は手を挙げたけど、店にお客は僕しかいないし、気恥ずかしさにその手で髪を二度三度なでつけ、空になっているコーヒーカップを取り上げたり置いたりしたな。
「ごめん、だいぶ待ってくれてたん?」
チアキは僕の前に素早く座ると、空のカップやトーストが載っていた皿を見ながらそう言った。
「いや、少しだけ。朝ごはん食べてなかったから、モーニングを頼んだんよ」
チアキは視線を店主に向ける。水のグラスを銀色の丸いトレイに載せ、両手で丁寧に運んでくる店主はチアキを見て少し微笑んだあと「いらっしゃいませ」とグラスを彼女の前にできるだけ音をたてないように置いた。
「すみません、珈琲をひとつ。それから、わんちゃんもおかわり、頼む?」
僕はチアキの言葉に引っ掛かったが「ああ、僕も。すみません、珈琲をもう一杯」と続けた。
店主は軽く会釈をしてカウンターへ戻り、新しい珈琲を淹れる準備を始める。僕はと言えばチアキに何から話しだせばいいのか迷っていたし、チアキもグラスの水を少し口に含んだあとは、初めて来たかの表情を見せて店内を伺っている。僕と視線を合わせないようにしているとは思わないけれど、やはり彼女も最初の言葉に迷っていたんじゃないかなと思う。
何も言い出せないでいると控えめな音量で音楽が流れ出した。スクラッチノイズがあったのでレコードを掛けたのだとわかった。曲名は忘れたけれど多分、ショパンのピアノ曲だったと思う。その時の僕らには似合っていなかったろうけど、店や店主の女性には似合う曲だと感じた。店主の心遣いが始められない沈黙を救ってくれたような気がしたよ。
「お母さん、どうなん?」
僕から結局は口を開いた。
「うん、前から心臓が弱いやんか。だからお父さんのことで、だいぶ堪えとう₁と思う」
「そうなんや。言うとった₂もんな。ほんで₃、お父さんには会えたん?」
「今は家族も会われへんの。面会できるんは弁護士さんだけ。面会できるようになったら言うてくれるって」
チアキは水のグラスを眺め、時折僕に目線を移しながらそう言った。
「あのな……」
僕が言いかけた時に店主が珈琲を運んできた。「すみません、お待たせしました」と話を中断させたことを詫びるようにそう言い、二人の前に丁寧に珈琲を置き、さがっていった。
「あのな、大変なのはよくわかってるし、詳しい事を根掘り葉掘り聞こうとも思てないねん。今はな。けどな、俺は、アツやサエコも同じやと思うけど、なんかできることあるんとちゃうかなって。知っとうやろ₄? あいつらの性格も。だから今日も。あいつらがな、とにかく俺に先に行ってチアキの様子見てこい。って言うてくれたから」
僕はチアキから連絡が暫くなかったことを怒っているように思われたくなくて、アツ君やサエコがする心配を引き合いにだしたような言い方をしてしまった。
「うん、わかってる。ごめん」
「いや、謝ることはないで。一番しんどいのはチアキやから。俺はその……」
「わんちゃん」
僕の言い訳みたいな言葉をチアキは遮った。
「ごめんやけど、当分の間、会われへんし、考えたいこともたくさんあって、お母さんのことも心配やし。だから、そっとしといてくれへん?」
僕はチアキの言っていることの意味がよくわからなかった。そして僕にしかわからない彼女の言葉の違和感。
「なんで?って聞くのはおかしいか。大変やのは、わかってるって言うとんのにな」
僕は少しだけ笑ってそう言った。チアキも少しだけ笑った。
「そうやって、チアキがそう思っとんやったら、それでいいやん。当分の間っていうことなら。けどな、俺にはやっぱり相談してほしいなという気持ちはある。お前のことを大事にしたいし、できることはなんでもしたいし」
「わかってるよ、それも。けど、今は、ごめん」
チアキは伏し目がちにそう言う。僕が知っていた彼女はそんなことをしなかった。むしろ伏し目がちに喋るのは学生時代の僕の癖だった。そんな僕を覗き込むようにして、チアキは視線の先でいつも笑っていたんよ。
それから今の生活のことを少しだけ彼女から聞いた。今、こちらで働き先を探していること。お母さんの状態次第では入院が必要かもしれないこと。今、住んでいる叔父の家はそう長くは居れないことなどをポツポツと聞いた。どれもこれも、誰かが助けなくてはいけないと思えることばかりだった。けれど彼女は暫くはそっとしておいてと言う。彼女の真意はわからず、僕がするべきこともわからなかった。
二人の珈琲が無くなる頃、店の掛け時計は12時を差そうとしていた。
「ごめん、早よ帰らんと。お母さんも気になるし、おばさんもパートに行く時間やから」
チアキはそう言い席をたった。僕らはまだ一時間も話していない。事件のことなんか聞かなくても、僕らにはいくらでも話題はあったはずだよ。けれど彼女のその言葉に促される様に僕も立ち上がり、店主の丁寧な礼を受けながら支払いをすまし、先に出ていた彼女を追うように僕も扉を開ける。
ドアカウベルが大きく音をたてた。時間を急かすように。
「ありがとう、ごめんね、遠くまで来てもろた₅のに」
「ええよ、俺が勝手に来たんやし」
チアキは後ろでまとめた長い髪を少し気にしながら「わんちゃん、髪の毛長い方が好きて言うとったよね」と唐突に訊く。
「え、なんやねん、急に」
「切ってもいい?」
僕は返答に窮し、ただチアキの姿を眺めていた。口ごもることすらできない彼女の問い。
「聞かれても困るか……」彼女はまた少し笑った。
「なあ、俺からもちょっと聞いてええか?」
「なに?」
僕はさっきから抱えていた違和感を持ち出す。
「なんで俺のことさっきから『わんちゃん』って言うんや。そんなん中学の時のあだ名やろ?」
彼女に僕の気持ちを晒してから、チアキは僕を名前で呼んでいた。僕もチアキちゃんからチアキと呼び捨てにしていた。つまらない、子供じみているけれど二人で通過した一枚の扉。それから僕らは一緒に幾つもの扉を開けて。
チアキは俯き暫く黙ったままだった。そして両の拳を強く、彼女の持てる力一杯で握りしめるようにして自分で自分の足を叩く。
「どうしたんや、チアキ……」
驚く僕の言葉に顔をあげたチアキの頬には、拭いきれない哀しみが伝っているように見えた。
「『わんちゃん』って呼びたいんよ!」
吐き捨てるようにしてチアキは背をむけ走り出した。忘れられない姿があっという間に小さくなる。僕は彼女を追いかけようと二歩三歩と足を出したがそれ以上は動けなかった。
後ろで店のドアカウベルがカランカランと音を鳴らす。僕らと入れ違いに新しい客が来たのだろう。僕らが通った扉を背後で誰かが開け、そして当然のようにそれは閉まった。
5へ続く
神戸や関西の言葉
1 堪えとう(こたえとう)→ 堪えている
2 言うとった(ゆうとった)→ 言っていた
3 ほんで → それで
4 知っとう(しっとう)→知っている
5 来てもろた → 来てもらった
Only Lie Worth Telling Kathleen Edwards
The catcher on the riverside1
The catcher on the riverside 2
The catcher on the riverside 3
The catcher on the riverside 4