花枝さん Ep4 Magic spell
花枝さん(仮名)67歳(本当は72歳)は私の職場におられる現役最年長パートタイマーだ。
私が勤める会社は某国から外国人技能実習生を受け入れている。感染症の影響でしばらくは無かったらしいが、2022年の4月から受け入れを再開した。
最近何かと話題になっている制度の変更とか賃金関係のトラブルなど、あまり良い印象を受けない人もいるかとは思うが、私の職場で働く彼らは、そういった話とは関係なく毎日明るく働いているようだ。
日本語の勉強もそれなりにしているらしく、簡単なことなら日本語で説明すればなんとか理解できるし、冗談を言ったり、人懐っこい面もあったりしてまあまあ上手くいっている職場ではないかと思う。
総勢10名いるので彼、彼女らもそんなには寂しくないだろうし相談もできるだろう。私達も彼らを頼りにしている部分はある。
彼らを纏める担当者はいるのだが、現場ではそこの人間が仕事を教えたり指示しなくてはならない。ご存じの方も多いと思うがポケ〇ークっていう翻訳するやつ、なかなか活躍してくれる。
それほど正確な翻訳ではないのだが身振り手振り加えれば、まあ、だいたい言いたいことは伝わるし、相手の聞きたいことも想像がつく。
さて、そんな実習生の女性3人が私がいる仕事チームに加わっている。当然、花枝さんもいる。毎回言っているが花枝さんは仕事に大変厳しい。外国人技能実習生にも遠慮はない。であるから配属当初は必然的に彼女らはよく怒られていた。
「アナータ、これ、4番へ持っていって」
既出の通り花枝さんはあなたという時必ず『な』のあとが伸びる癖がある。
「アナータ? 4バン、ワカタ」
実習生の彼女が言う。
「ワカタじゃないでしょ、『わかりました』」
「ワカ… マイタ?」
「イじゃないの シ!」
「イ?」
彼女は口を真横に開き歯を出して言う。この時点で私はすでに笑いを堪え切れていない。
「イじゃない! シ!」と花枝さんはなぜかマスクを外して歯を指さす。
もうあかん。腹筋が…… なんで歯を……(確かに『し』だが)
「4バン シ ワカタ アリガトゴザイマース」
「アナータ、違うでしょ!! もう! 一緒に行くから来なさい!」
「???」
と言うようなやりとりが当時、毎日のように繰り返されていた。
ある日、ちょっと難しい会話が必要な時があって、例のポケ〇ークを使って彼女らに仕事の説明をしていた。そこへ花枝さんは現れる。
「イヌヅカさん、アナータ、それでうまく通じるの?」
花枝さんは前述のようなやりとりの他は、全て私や他の社員に説明をさせるのでこの機械を使用したことはなかった。
「あー、完璧には伝わらないし、翻訳もイマイチですけど、大体のことはわかりますよ」
「そう・・・・・・」
また、例の間があく。
「えっと、なんか喋られます?」
「いや、いいです。早く仕事させなさい」
「はあ……」
私は花枝さんも本当は彼女らと仲良くしゃべりたいのではと、勝手な想像をしていた。
そしてその日の仕事が終わりかける頃、連絡ボードの前にいる花枝さんがなにやらゴソゴソとしているのを見かけた。
「お疲れさまです」と声を掛けると花枝さんは
「ああ、イヌヅカさん、アナータ、ちょっと手伝ってよ」
と言われた。
「なんですか?」
「これ、使いたいのよ」
花枝さんの手にはポケ〇ークがあった。やっぱり! 花枝さん使いたかったんだ。あの子らと仲良く話してみたいんやな……
「ああ、いいですよ。簡単ですよ、喋るだけでいいんで」
で、花枝さんに簡単に使い方を教えてあげた。
設定はしているので、日本語のボタンを押しながら日本語で話す。そしてボタンを離すと画面に相手の母国語に翻訳されたテキストが表示され、音声で読み上げてくれる。相手の言葉の場合は、外国語の方のボタンを押しながら相手に話させ、離すと相手の言葉が日本語に訳され、テキストが表示される。そして音声でそのテキストが再生されるという仕組みだ。
「結構、簡単なのね」
「でしょう? 正確かはわからないですけど、なんとなく意味は通じると思いますよ」
私が言い終わるや否や花枝さんは『ちょっと借りる』と言ってポケ〇ークを持ってぴゅーっとどこかへ行かれた。早速彼女らと話をしに行ったのだなと思い、私は残りの作業に戻った。
しばらくすると実習生の彼女らがケラケラ笑いながらエレベータを降りてきた。彼女らは本当に明るい子達でよく笑う。
「終わった?」
私は彼女らに声を掛ける。これくらいの言葉は彼女らはわかる。
「オワリマシタ アナータ、アナータ」
彼女らはそう言って笑い転げる。
アナータという言葉で花枝さんと話していたんだなとわかった。
笑う彼女らは自分達の言葉で喋っているので内容はわからないが、多分、花枝さんと仲良く喋れたんだろうなと思ったものの、彼女らがアナータを多用しているのが気になった。
私はこの話で花枝さんの『アナータ』を特徴付けているから偉そうなことは言えないけれど、職場でそれをバカにしたような言い方をしたことはない。職場の全員が花枝さんの『アナータ』を理解しているし、確かに連発されると笑いを堪えるのに苦労することもあるが、皆が花枝さんのキャラとして認めている部分がある。花枝さんはこの仕事も長く、課長より下の人はチーフを含めて皆、花枝さんよりは後輩なのだ。そういう意味で尊敬もされている。
だから彼女らがそれを連発してケラケラと笑う事は、なんか違うのではと思ってしまった。
「〇〇さん、ハナエさん 会った?」
私は彼女らの中の一人に聞いてみた。
「ハナエサン、アナータ、アナータ ワカラナイ、ワタシ ゴメンナサイイイマシタ」
彼女は笑いながら言う。
「あのね、アナータって言って 笑うのは やめましょう ダメ」
私がそう言うと、彼女は『何を言ってるの?』と言うような表情で
「ワカリマセン ゴメンナサイ」
「いや、ゴメンナサイは OK,OK! アナータは無し! ね?」
「アナータ ダメ?」
「そう。アナータ ダメ」
おー、と彼女らは『そういうことか』というような感じの顔つきで頷いた。
「わかった?」
「OK,イヌサン ワカッタ アリガトゴザイマース」
(私は彼女らにイヌサンと呼ばれている)
「じゃー終わろうか」
「「「オツカレサマデシター」」」
私は彼女らが本当にわかってくれたのかなと思いながらも、これ以上はまあ、いいかと自分の仕事の片づけに戻った。すると今度はエレベータから花枝さんが降りてきた。
「お疲れさまです」
「ああ、イヌヅカさんお疲れ様。これ、返しとくわ」
私はポケ〇ークを花枝さんから受け取る。
「うまく話せました?」
さっきのことが脳裏をよぎり、花枝さんに聞いてみた。すると花枝さんはマスクごしでも伝わる笑顔をこっちに向けながら
「面白いわね、あの子たち。笑っちゃうわ。まるで話が通じないのよ」
と言い、ハホホと声を出して笑った。
「何、話してたんですか?」
「今度さ、ごはん食べさせてやろうと思ってさ、『アナータ何が好き?』って聞いたのよ」
「へー、それで?」
「ところがよ、むこうの返事は『アナーターって何?』って言うのよ。おかしいでしょ~」
「??」
「でさ、『アナータは、食べるもの、何が好き?』ってもう一度聞いたのよ」
「はあ、そしたら?」
「そしたらさ、ハホホ、『アナータは食べ物か?』って聞いてくるのよ」
花枝さんはさっきの彼女らのように笑う。
「ねぇ、アナータが好きな食べ物聞いてるのに、アナータは食べ物かって聞き返すのよ?おかしくって ハホホホ!」
こんなに笑う花枝さんは初めて見た。
ひとしきり笑った花枝さんは『じゃあ、お疲れさま』と言って帰っていく。私はなんだかさっきまでの心配があほらしくなってきた。
しかしポケ〇ークはそれくらいの翻訳はできるのになと思いつつ翻訳履歴を見てみた。
日本語
『あなーた 食べるもの 何が好きですか』
相手の言語
『〇△×◇▼・・・・』英語ではないのでスペルもわからない。
相手の言語
『〇△×◇…・・』
日本語
『何ですか あなーたーとは』
これを見た私はあーっと思った。
花枝さんの『アナータ』は『貴方』に翻訳されずに『アナーター』とそのままなにかの固有名詞のように扱われていたのだろう。
花枝さんは自分の癖も関係なく翻訳されていると思っているはず。
それでアナータの応酬になったわけで、彼女らもそれを笑っていたのだ。
なんだか自分の中でもやもやしてたものが無くなり私も笑えた。
それにしても花枝さん、普段、彼女らに怒鳴ることも多いのに、ごはんを食べさせてやろうなんていいとこあるやん。
それから数日後に花枝さんを取り囲んでキャッキャと笑い話す彼女らを見た。輪の中の花枝さんも何かを言いながら笑ってた。
時折『アナータ』が聞こえる。
皆を笑顔にする魔法の言葉のように。
※私がこのシリーズで花枝さんの「アナータ」を伏せずに特徴として書こうと思ったのは一年ほど前のこの出来事が印象深く残っていたからです。
後日談ですが彼女らの食べたいものを食べさせるために、花枝さんはあの子たちを連れて某国料理のお店に行って、大層おいしかったと話していました。
で、暫くの間彼女らは「ハナエサン、ハナエサン」と職場で彼女の周りを離れなくなりました。
Wings - Silly Love Songs (Official Music Video)