ケケケのトシロー 16
(本文約2740文字)
瀬戸内海小豆先生は言わずとしれた大作家である。数多くの文学賞を総なめにし、女流作家として日本文学界をリードしてきた大作家だ。三年前急に出家してその執筆ペースはぐんと落ちたが、今も出せばベストセラーは間違いない。そう言えば出家されてから新作は出ていないが……
「先生、私、先生のご本はたいてい読ませて頂いてます。一番好きなのはやっぱり『花に聞け』です」
「いや~ん嬉しい~。サイン書きましょか? ケケケ」
「あ、今度、本、持ってきますから頼みます」
エライ艶っぽい喋り方や。けど、なんでケケケと笑うんや。イメージ全然ちゃうんやけど。
瀬戸内海先生はニコニコと(いや、ケケケと)笑いながら護摩壇の前にすっと座られた。法衣を纏う尼僧の格好であるけれど顔立ちは若く見え上品だ。それに色香もほんのり漂う。多分、五十代位のはずだが、カズを見事な一本背負いで投げ飛ばした。身体も大きくはない。華奢だし、そもそも瀬戸内海先生が柔道など武道をやっていたなんて話、聞いたことも読んだこともない。が、時に強い女は魅力的に見えたりする。いや、それは個人的な好みの話か。
「トシロー、ほんなら修行を始めよか。小豆(あずき)ちゃんも相手したってくれる?」
キダローは瀬戸内海先生を小豆ちゃんと呼び、当の小豆ちゃんは『はーい』とまたキャバ嬢のような返事をする。あ、キャバ嬢と遊んだことはない。口から出まかせだ。あくまでも想像だ。絶対に妻の真由美には言うなよ。誰一人言うんじゃない。
「トシロー、ケープを纏え」キダローの言う通りにケープを着用する。
「ええか、ケープを付けたら、お前の身体は常人の10倍くらいの能力を発揮できるんや、例えばや、お前、バク転できるか?」
「は? できるわけないですやん」
「ちょっとやってみ」キダローが『ワシが後ろで支えたる』と言いながら俺にバク転を要求する。
そんなアホな。俺、中学の時ですらできんかったのに。還暦越えたオッサンができるわけないやろ……
「ほら、いくで、一、二、飛べ!」
キダローの号令に合わせ俺は後ろに飛ぶイメージだけをする。イメージだけだ。足はぴったりと床についている。
「お前、何やってんねん! ジャンプせーよ」
「いや、無理やって」
「大丈夫や、ケープがあるから」
「いや、無理」
「トシちゃん、一回、真上へジャンプしてごらんなさい」
瀬戸内海先生がそう言ってくれた。そうか上へのジャンプなら少しくらいは…… て、トシちゃんなんて言うなよ、恥ずかしいな。
そう言えば、結婚前の真由美はトシちゃんって言ってくれとったな~。懐かしいな。今は『あんたー!』としか呼ばんもんな……
「じゃー飛んでね、行くわよ、いっち、にーの、さーん」
「さーん」と俺は小さくジャンプした。小さくだ。次の瞬間、俺の顔の前に格天井の格子が張り付きそうな距離に迫っていた。慌てた俺はそのまま背中から落ちたが、キダローがケープを一気に拡げハンモック状態にして俺を受け止めてくれた。
「な、わかったやろ。次は慌てんと、自分の足で着地せーよ」
「えー、これ、ここ、天井までは5メートル以上はありますよね。ちょっと足浮かす感じでしかジャンプしてないのに…… じゃ、もうちょっと力入れてジャンプしたら」
「そしたらお前、天井突き抜けるで。ここではやめとき。頭、思いっきり打つで」
俺は頭を気にする。他人より頭はデリケートだ。薄毛な分、毛髪クッションがない。直に脳天を直撃するのはマズい。
「じゃ、いくわよ、いっち、にーの、さーん!」
瀬戸内海先生の掛け声とともに、俺はエビぞりをイメージして後ろへ飛んだ。だがまたしても飛んだだけだ。後ろに着地する為にくるっと回ることをせず、いや、する暇もなく、俺は開いている板唐戸を外へ飛び出して背中で地面にスライディングしていた。頭だけはなんとか守ったが、それにしても10メートルは背面飛行したみたいだ。
「トシちゃん、大丈夫?」瀬戸内海先生が心配そうに声を掛けてくれる。ケープのおかげで怪我はしていない。キダローは頭をボリボリと掻きながら『お前、運動オンチやったんか……』と困った顔を見せていた。
それから俺はキダローと瀬戸内海先生の手助けを受けながら、ケープを纏っての体さばきを練習する。普段のケープ無しなら5分も持たない体力の俺だが、1時間ほどの練習で自分でも驚くほどの動きをマスターしていく。続いて瀬戸内海先生に一本背負いで何十回と投げられるが、受け身は勿論、空中で転回して着地する戦隊ヒーロー並みの技も会得していった。
「ちょっと休憩しましょうかね」
いつの間にか瀬戸内海先生がお茶と和菓子を用意してくれていた。のびていたカズも気がついてからは、俺の修行風景をずっと見ながらシャドーボクシングをしていたようで汗まみれになっていた。
「ところで、ここはどこなんすか?」
菓子を頬張りながらカズがキダローに訊いた。
「ここはな、ワシらの修行場や。ここでワシもフキさんも小豆ちゃんも修行したんや」
キダローはお茶をすすりながら瀬戸内海先生の顔を見てほほ笑んだ。先生もにこりと返す。
「瀬戸内海先生も修行されたんですか? そもそもキダローはんと、どういう関係?」俺は前のめりに質問する。
「いや~ん、恥ずかしいわあ~ ケケケ」先生はすこし紅潮し、法衣のたもとで口元を隠す素振りをする。キダローも「ケケケ」と笑った。
「私ね、トシちゃんも知ってるように作家だけどね、ひょんなことからキダローさんと知り合って、その…… ねぇ~ ケケケ」
「えー、キダローさんとやってもーたんでっか?!」
カズがあけすけに言ってしまった途端、瀬戸内海先生はカズの喉を右の手一つで潰しにかかる。ぐええと唸るカズに『私ね~デリカシーの無い人は嫌いなのよね~』と眉間に皴をよせる。
「すんません、先生、それくらいで勘弁したってください」
「トシちゃん、もうちょっとお行儀を教えてあげてね~ ケケケ」
カズはすでに真っ青な顔で泡を吹き、また悶絶していた。
「ワシはな、小豆ちゃんとは、その、そう言う関係があるかないかと言われれば、無いとは言えんがな、(あるんかいな)そんなことより小豆ちゃんを守るために悪霊を四体飲み込んだ。今までで最大の闘いやった」
キダローは丁度真後ろにある謎の立像を見ながら言う。瀬戸内海先生の顔からも微笑みは消え、俺の知らない過去を二人が辿っているように見えた。
「キダローさんにはホントに辛い思いをさせたわね。ごめんね……」
「昔のことはええ。それに今はこいつがおるしな。そのためにまた一体飲んでもうたけどな……」
「トシちゃん。キダローさんを助けてあげて。この人は私の為に、自分の法力を犠牲にしてまで、私を救ってくれたのよ」
先生の真剣なまなざしが俺のほんの少しの正義感と勇気に火をつけようとしているのがわかる。
しかし、しかし、俺にそんな度胸はない。
注 あくまでもこの作品はフィクションです。
エンディング曲
Nakamura Emi 「ばけもの」
ケケケのトシロー 1 ケケケのトシロー11
ケケケのトシロー 2 ケケケのトシロー12
ケケケのトシロー 3 ケケケのトシロー13
ケケケのトシロー 4 ケケケのトシロー14
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