ソヴァディーヤーヤー 無駄な時間だって自分を豊かにする為の学びである
ヨガってなんだか禁欲的なものだと思っていた。
必要なものだけを見極め、穏やかに暮らす、ミニマリストなイメージ。
それが、ヨガ哲学を学び始めてどんどん捉え方が変わってくる。
例えばニヤマ(やるといいよ〜、という、オススメ)の一項目、「ソヴァディーヤーヤー」とは、いわば「自分の為の学び」「自分を知ること」であるらしい。
つまり、「自分のことが知れるような聖典、経典を読んでみたりすること。」
なるほど、なかなか難しそうだが、確かに大切だろうな。これは、大切なまなびだ、うんうん、なんて読み進めていると…
◾️ソヴァディーヤーヤーとは…
自分の気持ちを高め、心に勇気をくれるような言葉や映像、感動に触れ、心に栄養を与えること。
心について、体について、自分の真実が書かれた聖典や経典を読み、感性に響く言葉や旋律に触れ、感動の体験を重ね、感度を上げることで、本当の自分を知る為の準備が出来ます。それが、ソヴァ(自分自身の)アッディヤーヤー(学び)です。
(「やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ」より)
え⁇
本を読んだりして勉強するだけでなく、感動体験もそれに含まれるの⁈
それが、心の栄養になるの⁈
それが、自分を知ることに繋がるの⁈
真面目に襟を正してヨガ哲学を学ぼう、としていた私にとってはまたも目から鱗である。
最近、大好きなアートや音楽、文学を楽しむことに後ろめたさを感じていた。なぜなら、そこからは大きな感動を貰うだけで、私自身は何も生み出さないから。自分は貰うだけ、受け取るだけ。そのような時間を過ごしても自分の出来ることが増えるわけでもなければ成長を感じられるわけでもない。良い作品に出会うと、ただただ心が大きく、ぐわんと、大きく動く、ただ、それだけ。そして、同じ人間なのに…、と、動かしてくれたアーティストなり作品なりに引け目を感じたりしていた。
心が動かされる。
ただそれだけの時間を心から愛していた。
しかし同様に、アーティストでもない私にとっては直接的には何の為にもならない、いわば不要な時間だとも感じて虚しさが同居していた。どんなに心が動かされようが、仕事にも子育てにも直接は結びつかない。それよりやること、やるべきことがあるんじゃないか、これは現実逃避なんじゃないか、と。
その、どうしようもなく無駄と思えていた愛すべき虚しい時間をソヴァディーヤーヤーは肯定してくれたのだ。
ただ心動かされるものに触れるとこと、そのことで、自分を知る準備が出来る。
逆をいえば、その、一見無駄な時間を過ごさなければ、自分を知るなんてこと、出来ないのだ。
確かに、何でもかんでも心が動かされるわけでは決してない。例えばアーティストとひとくくりに言ってもどんなアーティストが好きなのか。そのアーティストのどんな作品がなぜ琴線に触れるのか。もしくは、日によっては全く触れないのか。何に自身の心が動かされるか知るということは、自身を知ることに他ならない。
「無駄なものって大事だよね」なんて、成功した人の言う言葉だと思っていた。
もちろん、そればかりだけではよくないが(ブランマチャールヤ)、でも、心動かすものも必要なのだ。
またもやヨガ哲学に勇気を貰い、久しぶりにクリアな気持ちで美術館へ足を伸ばしたいな、どこへ行こうかな、なんて、ワクワクしてきた。
欲つながりで次はニマ(やらない方がいいよ)の一項目、「ブランマチャールヤ」について感じたことをまとめてみたい。