豊かだからといって、必ずしも自由・安定というワケではない。
皆様お疲れ様です「燃え尽きた悲しき愛の戦士」と申します。
名前長くてすみません。でも自分で言うのもなんだけど、しっくりきてるんすよ。
(※2024年~ハグネキに改名しました☆)
この記事では、この世に爆誕してから幼稚園までの生態をお話したいと思います。
ざっくりとした自己紹介は別記事で書いておりますので、
よろしければ↓
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時は平成初期、北海道のいまはもう廃院となっているであろう病院(まだ無事に経営されてたらすんません)で特に難なくすっぽーんと生まれ落ちたそうです。
父はトラックの運ちゃん、母は当時は専業主婦で、団地住まい(エレベーター無の6階。妊婦さんにはツライ!)だったそうです。
そこから、母の父のツテで同じ北海道のとある町に移住します(生後3か月くらい)。
程なくして、私が1歳頃に両親は離婚します。
父が他所で別の女性を作ったことが主な原因だと聞いてます。
それでも母は事実だけを私に伝え、父の悪口を言うことはありませんでした。
これは今思うと、とってもとってもありがたいことだったと思うし、
母も苦しい心中だったろうに、気丈な人だなと尊敬しています。
(こうなってしまったのも、自分にも落ち度があるとも話していました)
これは衝撃的なのですが、1歳にしてひとつだけいまだに記憶に残っているのが、
夜遅くに父に電話ボックスに連れられて行ったことを覚えています。
もしかしたら、母の目を盗んでその別の女性と電話していたのかもですね。
記憶ってすっごーい(めちゃ他人事)。
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そんなこんなで母と共に母方の実家で暮らすことになります。
これが俗にいう大家族というやつで、
祖父・祖母・母(長女)・叔母(次女)・叔父(長男)・私という、
まぁちょっと変わってるのかな?という家族構成でした。
私が5歳のとき、叔母が出産し従弟が生まれます。
わけあってシングルマザーを選択したようで、大家族に新たな一員が増えました。
私は1人っ子ですが、弟ができたようで嬉しいやらなんとなく複雑な心境ではありました。
母の実家は当時そこそこ裕福で、たっぷりの愛情を受けて育てられました。
(よく温室育ちとか、甘やかされて育ったんだねとか言われますが、
別記事で弁明します笑)
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幼稚園時代の私は、落ち着きが無い子だったと聞いてます笑
入園式ではじっと座っていることができず、園長先生が壇上で話しているところへ乗り込んでいったり、これは自分の記憶にもかすかに残っているのですが、2人の友人を引き連れ(笑)、放送室をジャックしにいったこともありました笑
ただこの幼稚園、かなりストイック?今の時代なら間違いなく問題になっているであろう教育方針で、毎日座禅?を組む時間があったり、
子供らしく元気いっぱい遊ぶ!というより、漢字や算数などの勉強の時間が多かったように思います(お昼寝の時間も無かった)。
駄々をこねると容赦なくゲンコツが飛んでくるような、超絶スパルタ幼稚園でした。
放送室ジャック事件は、そんな息苦しさに耐えかねての反抗だったのかもですね笑
そして、同じ幼稚園の幼馴染(仲良かったけど、勝手にライバル視してた笑)がピアノを習っているということで、負けず嫌いな私もピアノを習うことになりました。これは中学を卒業するまで続けることになり、今後のちょっとした音楽人生に役立つことになります(楽譜が読める、相対音感を培う等)。
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以上、順風満帆なクソガキ幼少期のエピソードでした。
たくさんの大人に囲まれて育ったからなのか、勝気でおませさんな性格だったと思います。
反面、常に大人の顔色を伺うような子でもあったと思います。
そして、友達の兄弟とのエピソードを聞くたびに羨ましく思っていたところもあります。やっぱり、子供の頃って年が近い者同士じゃないとわかりあえないこともありますし、楽しめないこともありますもんね。
特に流行りのゲームとか、遊びの話題についていけないこともしばしば…
どちらが良いのか悪いのかというのは無いと思います。
自分で選択できることでもないし、無いものねだりってやつですもんね。
一応、普通とは違う経験ができたのかな?と人生の糧としているつもりです。
長くなりましたね。
ここまでお読みいただいた方々、ありがとうございました。
どうぞよろしくお願いいたします。
燃え尽きた悲しき愛の戦士