日本の主食変換の野望~粉屋の娘の背景~
ラブのストライキがありましたよ。散歩に行こうとハーネスやリードをつけようとすると、ソファに仰向けになり抵抗し体を持ち上げようとすると、体をソファに押し付けて抵抗します。理由は、さっきオヤツをねだったのを無視したから。オヤツをあげて様子を見てると、行かないの?とでも言うように散歩のサイン。まったく、お姫様という年じゃないだろうに、と思いながら出かけましたよ。
フキノトウが芽を出してましたよ~。自然は正直だわね。
今日は、先日の続きともいえるかもしれませんね。
私は非常に、正田英三郎氏とミッチの関係に興味があるのですが、残念ながら、英三郎氏の細かなことは調べてもウイキペディア以上の物は出てきません。英三郎氏の父親のことの方が詳しいなと思うくらいで、日清製粉の社史も随分とさらりとした印象です。戦後の混乱期を乗り越えたでしょうにと、私は思うのですよ。
もしかしたら正田家にとっては黒歴史かもしれませんね。戦前、戦中、戦後をどのように過ごし会社を大きくしたかは、実に興味深いのです。戦争前から戦後にかけて、英三郎氏の父親が辣腕を振るい貴族議員にまでなり、商売には政治的後ろ盾が必要だと思っていたのではないでしょうか?
私はこの英三郎氏の父親、貞一郎氏は商才だけでなく政治的な目もあり非常に野心的であったろうと思いますよ。その教育を受けたのが英三郎氏だったと思います。
貞一郎は分家の長男として横浜に生まれ父親を亡くし、舘林の本家で育ったのですが、明治のころは本家、分家の区別は厳しかったと思いますよ。
養育はされても、一部使用人みたいな扱いもあったのではないでしょうか?彼は非常に頭もよかったのでしょう。製粉事業を始め海外にも出かけ見聞を広げます。本家の娘を嫁にもらい事業拡大に力を注ぎ、満州や朝鮮にも会社を興し貴族議員にもなります。この頃は英三郎氏は父親の片腕で、そのやり方などを教わったと思いますよ。
ここからが、わからない歴史になりますが、その前に製粉業の歴史を少し見て見ましょうか。興味のある方は読んでみてください。
小麦は弥生時代にはあり、室町時代には外来の情報もありお菓子などが伝わります。明治時代にはパンが入り、戦後、このパンが急速に発展します。
戦後の食糧不足を理由に、小麦の発展に力を貸したのはGHQなわけです。GHQは食糧不足と子供たちの体格、栄養改善を理由に教育にも入ってきました。その教育の改編に給食がありパンが導入されたのです。
校給食は、日本の食文化と農業に深い影響を与えてきました。戦後の日本では、連合国軍総司令部(GHQ)の指導の下で学校給食が始まりました。ここでは、学校給食が日本の食生活と農業にどのように影響を与えたかについて説明します。
戦後の学校給食の始まり:
**1947年(昭和22年)**から、全児童を対象とした公的な学校給食が全国的に開始されました。
**1946年(昭和21年)**のクリスマスに、日本の子どもたちに脱脂粉乳、小麦粉、缶詰などが連合軍総指令部(GHQ)およびララ委員会から贈られました1。
GHQと学校給食:
GHQは学校給食を通じて日本の食生活を変えることを目指しました。
学校給食は「日本の食い物」を変えることを目的としてスタートし、実際に食生活は変化しました。
その結果、米消費が減少し、減反政策へとつながりました。
減反政策の進行中、地元の米や野菜を使った学校給食が広がっていきました。
小麦由来の問題:
学校給食の影響力は大きく、味覚形成期に教育の一環として実施されたため、パン食は子供たちの舌にインプリントされました。
小麦由来の食品の消費が伸び続け、今やパンの購入額は米を上回るほどになりました。
小麦由来の疾患も増加しており、グルテン(小麦のタンパク質)が特定の障害を引き起こすことがわかっています。
学校給食への取り組み:
学校給食は地域のJA(農業協同組合)への道であり、子供たちの心身の健康問題を解決するために欠かせないものです。
子供たちの心身の健全な発達とJAの課題解決にとって、学校給食への取り組みは重要です。
今、乖離した食と農を結び付ける取り組みは、保護者や地域の人々を農業やJAへの関心・参加へと誘うことになるでしょう。
学校給食は、日本の食と農業に大きな影響を与えた重要な制度であり、地域社会の健康と持続可能性に貢献しています213. Copliotより
GHQの目的も英三郎氏の目的も、日本人の主食の置き換えでした。
貞一郎氏も早くにキリスト教に改宗し船れを受けており、宗教的な一致感もアメリカの印象にはプラスに働いたでしょう。加えて終戦までは貴族議員だった貞一郎氏の地位も利用し、GHQに近づく手立てはあったはずです。
当然政治家にもです。
ミッチは終戦後、15歳頃からダンスを習っています。竹山パーテイーと言われるものに入っていたのは有名です。
私はこれは父親の意向だったと思いますよ。GHQとの話し合いやもてなしに娘を利用したのだと思います。ホステス代わりですよ。
だから、私は英三郎の実の子ではないと思うのですよ。
1952年にGHQがサンフランシスコ条約(講和条約)とともに解体し
1954年には学校給食法が成立します。
私も小学校時代にコッペパンと脱脂粉乳で育った世代ですが、この裏側に製粉業の強力な働きかけがあり、主食の置き換えを考えた事業者がいたと思うと愕然とします。
最近、コメ、おにぎり、すしなど日本古来の食文化に光があったっています。コメ農家への減反政策には腹が立つものがありますが、一事業者の思惑で主食の変換も可能になるという現実に驚くばかりです。
ミッチはある意味、こうした欲ののために生贄にされたのかもしれません。それが実家を跡形もなくし公園にした遠因にも思えます。
そういう家に生まれた怒りが、ある意味権力を振り回さずにはいられない原点なのかもと思ったりします。だからと言って、皇室に入ってからの所業は許されないことに変わりはないのですがね。
私たち国民はずっと前から正田一族に操られていませんか。と思いましたよ。
今日はここまで
今日も読んでいただき有難うございます。❤️