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音楽と私と先生。

8月13日のお盆の朝。
「平野先生が亡くなってるよ。」と新聞を片手に父がトイレから出てきた。

その日は私たちはお盆の帰省中で、今夜からの主人の実家への帰省へ向かう準備をしていた。あと1時間もせずに出発しなければならないので子の面倒を見たり荷造りをしたり片付けや掃除をしたりとバタバタしてた。

そんな中で突然の訃報。頭の中が真っ白というよりも、先に後悔の気持ちが大きくズシン、と降りかかってきた。


平野先生は私の恩師。小学1年生の夏休みから高校3年生で大学進学のために実家を出るまでずっと先生からバイオリンを習っていた。
出会った頃は先生は60代くらいだったろうか、私にとってはおじいちゃんに近い年齢、存在だった。
毎週土曜日の5時から母に送ってもらい、妹と一緒にレッスンを受けていた。
妹は中学で部活が忙しくなり途中で辞めたので、それ以降は私一人でバスや自転車、たまに両親に送ってもらったりしながら通っていた。


先生は大学の先生をされていて、退職後にバイオリン教室を始められたようで
私の母が職場の同僚の方から紹介を受けて教室のことを知ったようだった。
母は大学時代にオーケストラに入っていてバイオリンを数年やっていた。
私が小学1年生の夏休みに突然母に「バイオリン、やってみる?」と言われ、なんだか楽しそうだしやってみてもいっか、くらいの軽い気持ちで「やってみる」と返事をした気がする。


初めてバイオリンに触れてびっくりしたことは、力を抜いて弾かないと綺麗な音が出ないことと、松脂を弓に塗らないと全く音が出ないことだった。
当たり前かもしれないけれど、力を入れて弾くと「ギギ」というなんとも響きの悪い音が出てしまう。力を抜くと、伸びやかで楽器と自分が一緒になって響いているかのような綺麗な音が出た。


子供用の小さなおもちゃみたいなバイオリンで、篠崎バイオリン教本に沿って先生とレッスンをはじめた。
12月には年に一回の発表会があって、母にピアノの伴奏をしてもらい毎回出演した。じいちゃん、ばあちゃんや従姉妹たちがみにきてくれたこともあった。
出演前は毎回本当に緊張していたし、うまく弾けた時やそうでなかった時色々あった。教室の他の人たちが演奏しているのを見るのも自分にとっていい刺激になっていたと思う。
練習の時はうまく弾けなかったりするとよく先生に怒られていたけど、本番の時は自分の演奏前も後でも先生は何も言わずに、ただニコニコとしてくれていたような気がする。そんな先生の顔が今でも目に浮かぶから。


週に1時間のたったそれだけの時間だったけれど、積み重ねてできた思い出や忘れられない光景はたくさんある。
毎週レッスンのために先生の家に着くと、到着を待ちながら先生が曲を弾いている姿が窓から見えて、先生の先生ではない、ただ音楽が、バイオリンが好きな一面を垣間見ていたこと。
レッスンに向かう道中で母と喧嘩をして、到着した時の私の表情を見て先生が「どうしたの?」と声をかけてたまらず泣いてしまったんだけど、そうかそうかと穏やかに話を聞いてくれて「どっちが悪くてもね、大丈夫。仲直りできる。だって家族なんだから。」と話してくれて心がスッと軽くなったこと。
教室の数人で集まってアンサンブルをするようになってから、部屋に数人が集まってバイオリンを合奏するので部屋からソファや机を外にみんなで運んだ時のこと。
バイオリンが専門の先生が、地域のジュニアオーケストラのためにバイオリンでなくビオラで参加して、ビオラを弾いている姿。
先生の乗っていたかわいいワーゲンの車。
教室の大きな譜面台。
高校3年生の最後のレッスンの時。最後の最後で私が寂しくて大泣きしてしまった時にニコニコいつも通り笑って「めいちゃんは本当にすぐ泣く」と言った時のこと。


教室に通って先生と出会っていなかったら、今の私は間違いなくなかったと思う。
先生との出会い、音楽との出会いが今の私を、今の私の世界をとてつもなく大きく広く広げてくれているから。
音楽の道に進むことはなかったけれど、私は今でも音楽が大好き。こんなにも素晴らしい音楽の世界を知っているのは、音楽の楽しさや感動を先生と一緒に体験してきたからなんだと思う。
音楽を聴いて、心が穏やかな気持ちになったり、時にはなんとも表現できないような感動の波にのまれて感極まって涙が出たり。
自分が演奏している時の無心で弾いている時や、弾きながら心が、胸がどきどきすること。どれも何物にも代えることの出来ない経験だった。

そんな大事な大好きな先生。最後にあったのは成人式の時だったろうか。
母と着物を着て会いに行った。
それから数年私は就職して、しばらくして結婚もした。
先生に会いに行って報告したいなって思いながら何年も過ぎた。
そしてこの数年の間に何度も夢を見た。レッスンの約束をしていたのに忘れてしまっていて、もう何日も過ぎていて先生に連絡できない、とうろたえている夢。
時にはバイオリンを弾いている夢も見ていた。
昨年の冬に自分に子供が産まれたときも、顔を見せたいなと思いながらも何と言って会えばいいのか分からずそのままにしていた。いつか会えるだろうと、何となくそんな風に思っていた。
帰省した時は先生の家の前を車で通って、車あるかなと通りすがりに見てみたりしていた。つい最近も先生の自宅前を車で通っていた。車がなくて、あまり人気がなかったので少し気にはなっていた。


そんな矢先に聞いた先生の訃報。
その日はお盆帰省の実家の佐賀から自宅に車で帰る日だった。帰り道、音楽を聴きながら車の後部座席で一人泣いた。娘は隣のチャイルドシートの中ですやすや寝ていたし、夫は運転していたし、私と夫が出会ったのは大学時代なので夫はバイオリンを弾いている私を知らない。バイオリンをしていたことや音楽が好きなこと、先生の存在も話したことはあるけれど、どれだけ私の人生において大事だったのかそのあたりの温度感はきっと伝わっていないとわかっていたから一人で分からないように静かに泣いた。

お通夜や葬儀に行けないか、何かしらの形で先生に挨拶ができないか考えたけれど葬儀は家族葬だったし先生の奥さんももう自宅にはいらっしゃらないということ、お子さんも海外にいらっしゃるらしくお家に伺うこともできず、母とも相談したけれど何もできなかった。あぁ、私先生が元気なうちに会いにいかなかったこと一生後悔するんだろうなって悲しくなった。その後数日も母伝いで先生のことを知っている人に連絡を取ってもらったが、みんな同じように何もできないねと悲しんでいたよということで最後に先生に何かしらの形であったり手を合わせたりすることはできなかった。


しばらくして、また実家に遊びに行くことがあった。私はふと思い立って実家で何年も弾かれることなく眠っていたバイオリンケースを取り出して、久しぶりにバイオリンを手に取った。弓の毛も張り替えなければいけないほどボサボサになっていたし弦も古くなっていたけど、肩当てをつけて調弦してみた。その音を聞いて母が二階に駆け上がってきた。「バイオリンの音がする〜!と思ったら。」と懐かしんでいるようだった。「バイオリン、持って帰ってもいい?」と母に尋ねた。「もちろん!持って帰ってよ。これ、あんたが中学生の時に音大目指したいって言ったから頑張って買ったとよ。結局目指さなかったけどね、いいバイオリンだったよね。」とバイオリンを先生の家で先生と一緒に選んだことを思い出して話した
。そうだった、このバイオリンは先生と一緒に弾いてこれにするって決めたんだった。私は自宅にバイオリンを持って帰った。当時使っていた楽譜たちも一緒に。時間もあるし、弦を張り替えて弓の毛も張り替えてまずはバイオリンを綺麗な状態にしてあげよう、そして下手くそでもいいからたまに部屋で弾こう、と決めた。

近頃、お昼頃娘が機嫌のいい時はバイオリンを弾いて見せて聴かせている。まだ何のことか分かっていないけれど、テレビやスピーカーから流れる音楽とは違うことは何となく分かっている風だ。
聴かせるというより自分が懐かしんで楽しくて弾いているのかもしれない。娘にバイオリンを習わせたい!とは思ってないけれど、たくさん色々な音楽に触れて音楽を好きになってくれたらいいなと思う。私がそうであったように、音楽の楽しさや素晴らしさを感じて、色々なことを楽しめるようになってほしいと思うのだ。
先生はバイオリンが専門だったけれど、きっとバイオリンを通して音楽の世界に魅せられていたし音楽が大好きだったと思う。きっと私と娘のこのやりとりもどこかで見ていて、ニコニコと黙って笑ってくれていると思う。
そしてそれが今の私にできる先生への唯一の恩返し。先生本当にありがとうございました、先生のことも先生が教えてくれた音楽もこれからもずっと大好きです。
たくさんの音楽と一緒に生きていきます。これからも私のことや私たち家族のことを見守っていてくださいね。



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