究極のグラウンディング
グラウンディングと聞いて、思い浮かぶイメージは?
アーシングする
自然に身をおく
自分と向き合う
瞑想する
祈る
カラダを動かす
ゆっくり歩く
etc…
それぞれに答えがあるのだとは思いますし、そしてそれはすべて正解であると思います。
でも、究極のグラウンディングは「日常をしっかり生きること」なのではないか?とふと気がつきました。
グラウンディングとは何も特別なことではないです。
つまり、毎日、当たり前のことをしっかりやるということ、生きていることを自覚し、意識をもつということなのではないかと思うのです。
上に挙げたイメージは、資本主義以前の世界、経済や科学などの発展する以前の世界ではきっと毎日当たり前に、普通に、息するようにみんながやってきたこと。
もしかしたら大都会以外のところだと、今も当たり前にやっていることのはずです。
けれども、自然をなくしてビルを建てたり、土ではなくコンクリートにしたり、物質主義になったりetc.で、大都会に住む人たちはそういう当たり前のことが環境的にできなくなってしまったり、しなくなってしまった。
プリミティヴな感覚を忘れてしまっているわけです。
大都会に住む人たちの多くは、世界をいろんな意味で大きく回している人たちだと思います。
そういう人たちが、当たり前のことをできなくなっている今を考えると、今後の世界はどうなってしまうのやら?と思うわけです。
いろんな文化や人種や考え方が交差するTOKYO━━
とっても刺激的で楽しい、ダイスキな都市。
でも、時間も空気感も早く、みんなが小走り気味な世界。
みんなの頭の中が常にぐるぐる忙しい世界。
人の目が気になる世界。
いろんな価値観に抑圧される世界。
競争がいたるところで巻き起こる世界。
意識ばかりが先走って、カラダとココロが追いつかない世界。
一息つくことを許し合わない世界。
本来の自分を置いてけぼりにしがちな世界。
地球に生まれたひとりの人間として、当たり前をすることが難しい世界。
まさに以前のわたしはこの複雑で目まぐるしい世界住人でした。そして息苦しかった。
でも、そんな世界にいても、自分が立っていること、一歩いっぽ歩いていること、何を食べたいかを感じること、自然の力を感じたいと思うことetc.に意識を向け続けることで「日常をしっかり生きる」ことができるようになっています。
住人ではあるけれど、以前ほど息苦しさは感じません。
それは鈍感になったわけでは決してなく、自分がどんな環境においても、他ならない自分であることを認め、受け入れて、しっかりグラウンディングしている結果です。
感性は以前にも増してビンビンですし、スピってます。
都会でも、愛と宇宙をしっかり感じてます。
わたしがなぜ、TOKYOという大都市に生まれ、育ち、住み続けているのか。
その意味がわかったような気がしています。
コンクリートジャングルで、スピリチュアルな生活を送ることは不可能ではないんです。